大空の覇者「零戦」
2つの大洋を制覇し、 征くとこ無敵を誇った、空の王者「零戦」のドキュメントストーリー。

ようこそ「ZEROの世界」大空の覇者「零戦」に。
    平成14年5月1日新設

飛翔する零戦


大空の覇者「零戦」
平成14年5月1日更新

目  次


 「ゼロ戦」か「レイ戦」か?       「零戦」のライバル戦闘機
 「零戦」強さの秘密           「零戦」の初陣
 「零戦」初の空中戦


大空の覇者「零戦」

    

    1 「ゼロ戦」か「レイ戦」か?

     通称「零戦」の呼び方は「ゼロセン」の方が一般的には知られて
    いるが、これは開戦と同時に現れ、味方機をバタバタと撃墜してし
    まう悪魔のような(米軍から見て)戦闘機に恐怖感とゼロの発音か
    ら来る不気味さを込めて、米軍側で「ゼロファイター」と呼んでい
    たのです。
     太平洋戦争中「零戦」の名はあまり国内では知られておらず、専
    ら陸軍機の「隼」の方が「加藤隼戦闘隊」などの歌で宣伝され国民
    には親しまれていたのですが、戦後米軍による「ゼロファイター」
    の名で、「零戦」の優秀性や苦戦談などの記録が発表されと同時に
    日本側でも「零戦」に関する多数の書物が発刊されるに至り、一気
    に広く知れ渡り国内でも多くの人が「ゼロ戦」と呼ぶようになりま
    した。
     しかし「零戦」の制式名は「零式艦上戦闘機」で、海軍では略称
    「レイ戦」と呼ばれていました。

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2 「零戦」のライバル戦闘機

       Q:零戦は本当に強かったのですか?
       A:うん 強かった! 最高に強かったよ。
       Q:どのくらい、強かったの?
       A:それは、世界一だね!
       Q:だけど、防御力が弱かったと聞いたが
         其れはどうなんですか?
       A:零戦が設計された時期の戦闘機では、世界
         各国ともたいした防御を考えておらず、
         特別、零戦だけが防御を無視していた訳では
         ないんだよ。
       Q:それでは、何故そんなに強かったの?
       A:それは、優れた設計による零戦の機体と
         優秀な操縦士に恵まれた事だね。
         では、零戦の強さの秘密を教えてあげよう!

    これは、或る模型店で「零戦」のプラ・キットを小脇に抱えた少年
   と店の主人との会話である。此の話に有るように零戦は本当に強く、
   実によく戦った。
    当時の世界各国の一流機と格闘戦(ドックファイト)を行ったら、
   抜群の空戦力を持つ零戦にかなう戦闘機は無かったで有ろう、真に
   世界一の戦闘機で有る。零戦が設計された頃の空中戦は格闘戦が主流
   で、戦闘機には高速と優れた運動性能が要求された。
    高速を得る為には翼面積を小さくしなければならない、しかしそれ
   により翼面荷重値が上がり安定性を悪くする、運動性能を良くしよう
   と翼面荷重値を小さくすると高速を得ることが難しくなるのだ。此の
   相反した条件を、徹底した機体の軽量化と空気力学の追及により見事
   克服、調和させたのが、青年技術者、堀越二郎率いる三菱の技術陣で
   あった。
    それでは零戦と闘った、各国のライバル戦闘機に簡単な説明を付け
   ながら、性能を比較検討してみよう。

    ロッキードP−38Fライトニング
   昭和17年末より出現、排気タービンを搭載した最初の実用機で高空性
   能と速力では零戦より勝っていたが、480km/時以下での運動性能は全
   ての高度に於いて零戦の方が優れていた。
    ベルP−39D−1エアコブラ
   昭和17年4月よりニューギニア戦線で行動、低空から高度3,000メート
   ル前後では加速力、上昇力が零戦より勝っていたが、それ以上の高度
   では全ての点で零戦の方が優れており運動性能などでは問題に成らな
   かった。
    カーチスP−40Fウォーホーク
   昭和13年より開発開始された実用性の高い機体で、世界各地で使用され
   太平洋戦線では、ニューギニアやソロモン方面で行動。零戦との比較テ
   ストはエンジン不調のため、中止されている。
    リパブリックP−47サンダーボルト
   昭和17年から量産され、太平洋戦線には昭和18年6月に出現、全戦域で
   行動、本土空襲にも参加。頑丈な機体の超重量級戦闘機で、米国の戦闘
   機中生産量一番である。零戦との比較テストの記録なし。
    ノースアメリカンP−51ムスタング
   昭和20年、B−29を護衛し日本上空に出現、長大な航続力を持ち、低空
   での上昇力以外は全て零戦より互角か勝っていた。特に速力、加速の点
   が優れており、米軍機中初めて一対一で闘える零戦の強敵で有った。
    ブリュスターF2Aバッファロー
   昭和17年ミッドウェーで零戦と初交戦一方的に零戦が勝利を納め、ビル
   マ戦線では、隼とも交戦したがこれも一方的に撃墜、零戦の敵では無か
   った。
    ボートF4U−1コルセア
   昭和18年ガタルカナル島に進出、速力と高速での旋回性能が優れていた
   が、水平速度と上昇力では零戦が勝っており格闘戦では優位であった。
   しかし防弾を施した燃料タンクと丈夫な機体は脅威となった。
    グラマンF4F−4ワイルドキャット
   昭和10年から開発され改良を重ね、性能向上を図り4年後に採用され、
   主力艦戦となり開戦時よりガタルカナル島攻防戦で零戦と対戦、一対一
   なら零戦が必勝。高速での旋回以外は全て零戦が勝っていた。
    グラマンF6Fヘルキャット
   昭和18年10月、F4Fの後継機として登場、零戦と初対決した。大馬力
   のエンジンにも拘らず、旋回性能以外がわずかに優れていたに過ぎず、
   零戦との比較テストの後「零戦52型と格闘戦をしてはならない」と警告
   を出している。
    グラマンF8Fベアキャット
   零戦打倒のみを目的に開発、捕獲した零戦の性能を徹底的に究明し設計
   されたが、零戦の機体の軽量化思想を充分に意識したものと思われる。
   終戦により零戦との対決は無かったが、P51ムスタングとの模擬空戦で
   はF8Fの勝利であった。
    ホーカー・ハリケーン
    スーパーマリン・スピットファイア
   ホーカー・ハリケーンと共にヨーロッパ戦線ではドイツ軍機を相手に善
   戦したが、零戦との戦いでは、到底敵で無かった。

    零戦と米戦闘機の性能比較は、捕獲した零戦21型を米陸軍基地ライト
   ・フイールドで、徹底的に行われた調査の結果を発表した報告書「情報
   諜報概要第85号」を要約したものである。
    この報告書ように一対一で零戦に勝てる戦闘機は、P51ムスタングの
   出現まで皆無であった。米軍は一連のテストの結果を3Never 
   do not(ネヴァードゥノット):絶対してはならない、との警告を
   発令した。
    @ ゼロと格闘戦を絶対にしてはならない。
    A ゼロの真後ろに位置した時以外、480km/時以下の速度
      で戦闘を絶対にしてはならない。
    B ゼロが低空で上昇に移った時、絶対に追尾してはなら
      ない。
    此の警告に対し、米軍のパイロットは「それでは、どのようにしてゼ
   ロと闘うのか」と質問をした。
    答えは、ゼロに近寄るな!であった。又「ゼロと雷にあったら退避せ
   よ」との伝説的指令書が実際に出ていた。ゼロと出会った時は逃げても
   敵前逃亡で責められる事は無かったのである。  
    しかし昭和17年中頃より数を以て押し寄せる米新鋭戦闘機は頑丈で、
   高速性能では勝っていた、これを生かした新戦法により、数に劣る零戦
   は苦戦を強いられていった。
    昭和18年頃になると3倍以上の敵機との交戦が常で有り、零戦の消耗
   も激しく成るのに対し、補充は限られた数で有った。それと共にベテラ
   ンパイロットも減少して行き、「無敵零戦」の神話も徐々に崩れて行っ
   たのである。

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   3 「零戦」強さの秘密

    戦闘機が戦いに勝つためには、優れた機体と其れを飛ばす操縦士の
   腕に懸かっている。
    それでは優れた機体とは如何なるものであるのかその条件を大きく
   分けてみると、速力、運動性、武装、これらの3点が相手の戦闘機よ
   り秀れてる事が必要であった。
    しかし、此の3点は互いに反した性質を持っていた、例えば速力を
   上げるため翼を小さくし、空気抵抗を減らそうとすると翼面荷重が大
   きくなり、運動性能が低下する、又武装を強化すると重量が増え当然
   のように速力を低下させてしまうのだ。だがこれらの難点を徹底的に
   追及し、新機軸を織り込んだ技術の採用により一つずつ解決していっ
   た。
    零戦設計の際、当時の戦闘機は格闘戦(ドック.ファイト)が主な戦
   闘方式であったので、空戦性能、つまり旋回性能を良くする事に主眼
   を置き、機の重さに対し翼面積を大きめとした、これは同時に翼内の
   大口径20mm機銃射撃時に起きる衝撃を安定させる為でもあった。
    翼面積を大きくした事で機体の重量が増し、当然速力が落ちる、ま
   してや初めての20mm機銃の重武装である。
    此の矛盾を解決するため、設計主任堀越技師は機体の軽量化と空気
   抵抗の減少に細心の注意を払い設計を進めた。まず重量軽減のため取
   った手法は。
     @ 従来の主翼は二分されていたのを一体化させ、それ
       に使用されていた結合用金具の重量を省く。
     A 余分な肉を削れるだけ削る、通称「肉落し」により重
       量を軽減を図った、これには入念な計算のもと、構
       造上強度に関係ない部分を窓型や円形に刳貫くもの
       で、2〜3mmの孔まで設計図に有った程度徹底して
       行われた。
     B 骨組み所謂、桁材に世界で初めて超々ジュラルミン
       を使用した、これは今まで使用の超ジュラルミンよ
       り30〜40%も抗張力が高いものであり、その分
       「肉落し」が出来た。
   飛行中の空気抵抗を少なくする為には、機体の表面に打つ鋲を、96
   艦戦で成功した頭の平らな沈頭鋲を使用し又増槽タンクを流線型にし
   たり、さらに日本の戦闘機では初めての引込脚などの新技術が採用さ
   れた。
    このように、重量軽減と空気抵抗の減少に成功した事で、速力を犠
   牲にする事なく、軽快な空戦性能を得ることが出来たのである。これ
   に定速可変ピッチプロペラ、世界で初めての20mm機銃の採用により、
   強力な攻撃力をもつ戦闘機が生まれたのであった。
    しかし零戦、本当の強さは安定した飛行性能と優れた操縦性にあっ
   たのだ。
    此の秘密 @ 主翼に「ねじり下げ」を付けた、A 操縦系統に「たわ
   み式」を採用。これらに付いての難しい理論は抜きにして、簡単な説明
   をしてみよう。
     @ 主翼の「ねじり下げ」
    主翼は機体に対し角度、すなわち仰角が付けられている、普通仰角は、
   胴体の取り付け位置から翼の先端まで同じであるが、しかし零戦の主翼
   には先端に行くに従い、仰角が小さくなるようにねじりが加えられてい
   た。此れにより上昇しようと、機体が大きく仰角をとっても、翼の先端
   では仰角が小さいので、翼端失速を防ぐことが出来るのだ。
    此の「ねじり下げ」により大仰角時の横方向の安定を増し、旋回半径を
   小さくした。
    これには米英のいかなる戦闘機でも追従してくる事は出来ず、米空軍
   はついに、低速で飛行するゼロを追尾、又は格闘戦をしてはいけない、
   との指令書を各戦闘機隊に出した。
    また失速性能が改善され、低速でも安定した飛行が可能になった事は
   同時に長大な航続力を持たせる事にもなったのだ。    
     A 操縦系統に「たわみ式」を採用。
    飛行機は操縦桿の動きを、ケーブルかパイプ状の操縦系統で舵に伝え、
   その角度により舵面にあたる空気の抵抗で方向を変えるのであるが、速
   力の変化で同じ角度でも、舵の効きが変ってくる。
    すなわち、高速では舵の効きが良くなり、操縦桿の少しの動きでも、
   進行方向を大きく変えてしまうし、低速では同じく操縦桿を動かしても
   なかなか舵は効いてくれない事になる。
    此れでは、速度範囲の大きい戦闘機では操縦士にかかる負担が多く、
   疲労を招く事になる。此れを解決させたのが自動可変操縦装置、「たわみ
   式」の採用であった。
    所謂、操縦系統に弾力を持たせたのである、此れにより大きな操縦桿
      の動きでも高速時には、舵面にあたる風圧が強く舵角は大きくならず、
   低速時には此の逆で、舵角が大きくなり舵は充分に機能するのである。
    此の装置により、操縦士は高低速に拘らず同じ感覚で操縦桿を動かし、
   速度の変化の激しい格闘戦を自由に行うことが出来たのです。
    此れらは、今日では常識的な事だが、当時としては日本人の持つ繊細
   な神経による発想であり、この独自の優れた設計により「零戦」は無敵の
   強さを誇ったのだ。

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    4 「零戦」の初陣

    昭和14年9月14日、各務原飛行場の一角に有る、三菱重工業名古屋
   航空機製作所の格納庫から滑走路に向けて1機の飛行機が動き出した。
   所定の位置に着くとそれまで押してきた整備員の手が名残惜しそうに、
   誰からともなく機体から離された。
    朝の静けさを破るように轟音が響きエンジンが始動、それが心地よ
   いプロペラの回転音に変わる頃、機体はゆっくりと滑走を始め、エン
   ジン音が高まるにつれ速度を増し滑走路を走り出して行く、午前9時
   6分、機は軽快に地面を蹴り舞上がった。
    離陸したそのスマートな機体に引込み式の脚が交互に吸い込まれる
   ように収納される、すべてが順調だ、徐々に高度を上げた機体はそれ
   を傾むけ、別れを惜しむかのように飛行場上空を一周すると機首を目
   的地、横須賀海軍飛行場に向けた。
    やがて、その優雅な機姿は爆音だけを残し、澄みきった紺碧の彼方
   に一点の光となり、それを見送る者達の涙で霞んだ瞳の中で消えて行
   った、その中に「零戦」生みの親、堀越二郎の姿があった。
    思えば2年前、海軍航空本部から無謀とも思える「12試艦上戦闘機」
   計画要求書案を渡されてから、極限への挑戦を戦い続けて迎えた、き
   ょうの日、その一号機は晴れて海軍に領収され、製作者三菱の手を離
   れ巣立って行ったのである。
    彼の脳裏にはこれまでの苦難の日々と、それを克服した満足感とが
   去来していたであろう、設計主任堀越二郎、それを取り囲む設計陣ス
   タッフ一同、誰一人その場を去ろうともせずに、その眼は見え無くな
   る機影を追い続けていた。
    此の年の10月末には2号機、年が変わり15年1月には、三菱の瑞星
   13型エンジンを中島製栄12型に換装し性能を上げた3号機が海軍に納
   入され、12試艦戦の生産は順調かのように見えた。
    しかし12試艦戦は未だ完全ではなかった、昭和15年3月11日追浜飛
   行場でテスト飛行中の2号機が、空中分解という大事故を起こし、尊
   い殉職者を出してしまったのだ。急遽設計陣により原因究明のため調
   査が開始され、徹底した事故原因の探究により幾つかの貴重な資料を
   得ることが出来た。早々に疑いのある個所には、強度を増す等の対策
   がとられ、少なからず疑問が残る中、漸く生産が開始された。
    当時、日中戦争は拡大の一途を辿る一方、戦場は中国大陸の奥に移
   り長期化の様相を増していた。早期収拾を急ぐ日本軍は中国軍の重要
   拠点である重慶に、96式陸上攻撃機を駆使し爆撃を続けていた。
    しかし米国の援助で強化された中国空軍は、日本海軍の主力戦闘機
   である96式艦戦の航続距離外まで退却して、戦闘機の護衛なしで来る
   爆撃隊に襲いかかってくる、此れにより受ける被害は日を重ねるごと
   に増大していた。
    この頃既に、中国で戦う第一線部隊の中で、96艦戦より強力で航続
   距離の長い戦闘機が三菱で完成されている、などの噂が囁かれる様に
   になり、新戦闘機の戦線配備を要望する声も強まっていった。だが12
   試艦戦は未だ実用実験中である、高々度での燃料圧力の低下、エンジ
   ン全開時に温度の過昇、自動給弾装置の不調、落下燃料タンクの切り
   離し、などの問題が残っていた。
    昭和15年7月海軍は12試艦上戦闘機15機を、現地で実用実験を続け
   ることを条件に異例の措置として、海軍航空隊の前進基地である漢口
   に進出を命じた。
    それから約一月、実戦的猛訓練をする中、技術陣の努力で問題点も
   徐々に解決、同時に搭乗員らも操縦に自信を持ってきた7月末、12試
   艦戦は海軍の制式戦闘機として採用される事になった。
    此こに、世界を震撼せしめた「零戦」の名が生まれたのだ、即ちそ
   の年、皇紀2600年の末尾から零を採り、
零式艦上戦闘機11型と命名
   された。
    更にそれから20日余り、大陸の炎天下に猛訓練が続けられ、漸く操
   縦技術及び射撃技術も日毎に上達し、実戦に対しても充分納得出来る
   様になって行った。
    昭和15年8月19日、遂に零戦隊に出撃の時がきた、この日、漢口を
   発進した12機の零式戦闘機は、前進基地宜昌で燃料の補給を受け、後
   続してくる第一、第二連合航空隊の96式陸攻54機と呼応、重慶まで往
   復1,500kmを掩護して飛ぼうと言うのである、単座戦闘機が此の長距離
   を編隊を組み、飛行した記録は全世界の航空史上にはない行動距離で
   ある。
    果たせるか零式艦上戦闘機、初陣での失策は許されない!!

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    5 空中戦

    昭和15年7月初旬より中国戦線の前進基地、漢口に進出し、実験
   飛行を兼ねた実戦的訓練を続けていた12試艦戦は、機体にあった幾
   つかの問題点も解決し、残す習熟訓練を一層激しくおこなっていた。
    昭和15年7月24日、遂に12試艦戦は海軍の制式戦闘機に採用が決
   定した、皇紀2600年の末尾の零を採り「零式(レイシキ)」則ち、
   零式艦上戦闘機と命名された。
    搭乗員の意気は揚がった。さらに、猛訓練が重ねられ、実戦に
   も強い自信を抱くようになった8月の中過ぎ、待ちに待った、出
   撃命令が下った。「零戦隊ハ96式陸攻隊ヲ掩護、出撃スベシ。」
    8月19日、指揮官横山保大尉指揮する、零戦隊12機は漢口を離陸、
   54機の陸攻隊を掩護し、目的地重慶に向かった。先に飛んだ偵察機
   からの報告では、30機の戦闘機が重慶の飛行場に待機しているとあ
   る、横山大尉の脳裏に、30対12で戦うようすが浮かんでいた、苦戦
   を強いられるであろう。しかし、部下が猛訓練で鍛えた技量と、今
   迄戦った、どの敵機よりも数段と卓越した零戦の性能を考えると、
   少しの心配も無かった。
    陸攻、零戦連合の編隊は重慶市街地上空に迫った、零戦隊は高度
   を上げ敵戦闘機の迎撃に備える、陸攻隊は眼下の軍需施設に爆撃を
   開始した。閃光が走り爆煙が上がる、それに合わせるかのように、
   打ち上げられた対空砲弾が、陸攻隊の周りで炸裂した。
    零戦隊は、爆撃をつづける陸攻隊の上空に位置し来るべき敵機を
   待ち構えていた、だが敵機は一向に現れない、高度を下げて飛行場
   周辺くまなく索敵に飛んだが、敵の機影さえみ当たらなかった。
    敵の襲撃を受けなかった陸攻隊は余裕で爆撃を終わらせて、全機
   無事帰途についた。横山大尉は予想を裏切られた気がしたが、長駆
   1,500kmも爆撃隊と遠征し、全機帰還出来た零戦の長航続距離に、
   あらためて感服と自信の念を抱いた。
    翌20日、今度は進藤三郎大尉指揮する12機の零戦隊が重慶爆撃隊
   を掩護して飛んだ、だがこの日も敵戦闘機の姿を見る事はなかった。
    月が改まり、9月13日再度、横山大尉指揮する零戦隊は、27機の
   陸攻隊を掩護し重慶爆撃に出撃したが、やはり敵機は現れない。横
   山大尉はあせりを覚えた、如何に練習で優秀な零戦でも、実戦を闘
   わなければ、それを実証できない。何とか敵戦闘機との格闘戦を試
   みなければならない。
    中国空軍は、爆撃隊に新鋭の戦闘機が護衛しているのを察知し、
   事前に避難しているのではないのか?疑問がわいた。
    図星であった、丁度その頃、重慶の情報網による報告では、日本
   航空隊の来襲を知るや、中国戦闘機隊はサッサと退避してしまい、
   爆撃を終えた日本機が引き揚げるのを見計らい、重慶上空に現れ、
   其の存在を誇示するかのように飛び回ると。
    横山、進藤、両指揮官は一計を講じた!。計画は早速、実行する
   事に決定し、隊員に作戦の内容が指示された。
    明けて14日、進藤大尉と白根斐夫中尉率いる零戦隊13機、それに
   偵察機を加え、陸攻隊の後を追うように、漢口飛行場を離陸してい
   った。偵察機は敵戦闘機の所在発見に努め、戦闘機隊はそれを補促、
   空中戦で撃滅し零戦の優秀性を立証しなければならない。隊員の戦
   意は、いやが上にも高まっていた。
    漢口を発進して2時間余、重慶上空に進入、陸攻隊は市街地めが
   け爆撃態勢に入る、零戦隊は敵戦闘機の攻撃を警戒、視線を周囲に
   走らせながら旋回を続けた。陸攻隊は対空砲火の弾幕をくぐり乍ら
   も爆撃を終えた。
    帰途に着く陸攻隊に従うように、零戦隊も重慶上空から漢口に向
   け進路をとった。進藤大尉の眼は時計に注がれていた、情報部の報
   告によると爆撃隊が飛び去った後、10分位で中国軍の戦闘機は重慶
   上空に現れるとあった、重慶を離れて10分、約50km飛んで引返すと、
   敵サンも戻って来ているだろう。
    2時20分、出撃前の打ち合わせどうり、隊長機より列機に向けて
   合図が発せられた、一番機進藤大尉を先頭に、13機の零戦隊は一斉
   に急速反転し機首を重慶に向けた。
    忍び寄るように零戦隊は、再び重慶上空に進入していった。
    果たして、敵戦闘機は戻って来てるだろうか、進藤大尉の視線は
   市街地上空に向け走った!。
    その時、大空の彼方にキラリと光る数個の点を見付けた。敵機だ!
   1、2、3...3機編隊が9ヶの集団で移動している、敵、27機、
   13対27、速やかに敵戦力を確認すると同時に、零戦隊の胴体から増
   槽タンクが切り離され落下していく、身軽になった機体は速度を上
   げ、戦闘体制を整える。
    指揮官進藤大尉の一番機は急速に高度を上げ、敵戦闘機群の背後
   に、大きく回り込むよう列機を誘導した。
    敵は未だ気付いてない、いや、日本の戦闘機が戻ってくるなど露
   ほども考えていなかったであろう、往復1,500kmそれに敵を欺くため
   100kmの飛行、それに加え敵戦闘機と格闘戦を闘う、そんな戦闘機な
   ど世界の常識になかったのだ。
    零戦隊は敵編隊の上1,000m、太陽を背に絶好の攻撃位置を占めた。
   敵戦闘機はソ連製、イ15、イ16だ、これより一気に中国戦闘機の編隊
   に襲いかかった。
    敵も気付き散開しながら加速、戦闘態勢に入ろうとする。
    進藤機は敵の指揮官機めがけ突込んで行き、機銃を撃ち込んだ。
   だが、命中前に敵の先方に出過ぎてしまった、機が速すぎるのだ、す
   ばやく急速反転で体勢を整えると、近くの、敵機の後ろに回り込み
   20mm機銃の一撃をくわえた。今度は見事命中、20mm弾の威力は凄かっ
   た、敵機は主翼を吹っ飛ばされ、きりもみしながら落ちていく。
    戦況把握と戦闘指揮のため高度を上げ、列機はと振り返った進藤大
   尉の眼に、我が零式戦闘機、敵イ15、イ16戦闘機が入り乱れ、格闘戦
   を繰りひろげているのが映った。
    火を吹きながら墜落する機、白煙吐きながら逃げ惑う機、それを追
   掛け銃撃を浴びせる零式艦上戦闘機、爆発を起こし火の玉になり落ち
   てゆく機、凄じい格闘戦の中、飛んでいる機数が、みるまに減ってい
   く。戦うこと10数分、気が付くと。敵機の姿はなく、飛び続けてるの
   は零戦だけである。戦闘は終わった。
    進藤大尉は重慶上空を飛び回る列機を誘導し帰途に着いた。
    漢口飛行場に着陸した零戦から降り立った隊員は、指揮官進藤大尉
   の周りに集合、夫れ夫れの戦果を報告した。結果は驚くべき数字を表
   していた。
    進藤大尉は部下の報告をまとめ、航空隊司令長谷川喜一大佐の前に
   進み出て「戦果報告いたします」一息入れて「敵戦闘機27機と戦闘、
   全機撃墜、撃破、我が方損害無し、全機帰還」。
    その後も、太平洋戦争までのあいだ空中戦で撃墜された零戦は一機
   もなかった。

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