日本潜水艦史

第一章 潜水艦の開発

1 潜水艦の概要

日本潜水艦の生い立ち

 現在世界の列強海軍国が保有する潜水艦は、世界の如何なる
海域でも即時に軍事行動をとる事が出来、海軍戦力の一端を担
う、重要な地位を占める強力な艦艇として発達している。しか
しこの潜水艦も初期の頃は、戦闘能力が未知の小型潜水艇で沿
岸付近を辛うじて行動できる幼稚なものであった。
 海戦史上潜水艇が初めて軍事行動をとったのはアメリカの南
北戦争の時だと言う記録が有るが、この潜水艇の行った作戦行
動やその戦果又は性能に付いてはあまり知られていない。
我が日本海軍が太平洋戦争に於いて大きな期待をかけ建造し、
太平洋せましと縦横無尽の活躍をした潜水艦の歴史は、明治37
年11月、アメリカのエレクトリック・ボート社で製造されたホーランド型
潜水艇5隻が、分解梱包して神奈川丸により運ばれ横須賀港に
到着した時に始まる。まさにその時、日露戦争の真っ最中であ
り、その1号潜水艇の組み立てが完成したのは明治38年7月だ
った、だがこの年の10月16日に日露戦争が終結したため、実戦
に使用されることは無かった。
 この頃、まだ潜水艦とは呼ばれず‘のろま’で愛嬌のある形
から「ドン亀」と言う有り難くない愛称をいただき、水中速力
4ノットそこそこで将来性も十分に認めてもらえない潜水艇で
あった。しかし明治38年10月には1号艇から5号艇までの5隻
全部が完成し、明治38年11月1日、日本初の潜水隊「第一潜水
艇隊」が、続いてホーランド型の新設計図面を入手した川崎造
船所は日本人だけの手で、2隻の潜水艇建造に成功し、これに
より「第二潜水艇隊」が編成された。その後も、先進国である英
国、仏国、伊国等から次々と新型潜水艦を購入、特徴、長所を
比較研究し、我が国独自の技術とし、吸収して行ったのである。
第一次世界大戦が始まると、ヨーロッパにおける潜水艦の進
歩は著しく、特にドイツ潜水艦においては注目すべきものがあ
り、又イギリス潜水艦も画期的な発展を遂げていた。そしてこ
の潜水艦が隠密性を活かして行う魚雷攻撃は予想以上の戦果を
挙げていた、これは今まで其の価値観を未知数としていた海軍
関係者に大きな衝撃を与えるのに十分であった。この事により
各国が競って潜水艦建造に力を入れ、それぞれの国の運用方針
に合った艦を造りあげていった。勿論、日本海軍でも輸入から
模倣時代、そして独力での建造を目指し、苦心惨憺の末、我が
海軍独自の戦術に基ずく強力な潜水艦を完成することに成功し
たのである。

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潜水艦の機構

 潜水艦は魚雷をもって、敵水上艦艇を攻撃する事を主任務と
するが、其の特徴は、水中深く潜航し隠密裏にして、敵の不意
を突き戦果を挙げることで、そのため潜水艦は水上艦艇とは全
く異なる特性を持つている。それは飛行機が上昇、下降運動を
する如く、水中深く潜行したり、又浮上出来る運動性を持ち、
まさに此れ3次元の行動である。これは、水上艦艇で絶対にす
ることがない、潜水艦だけのお家芸なのだ。
 飛行機は、翼に生じる揚力により上昇、下降を行うが、潜水
艦の場合は艦内のタンクに、海水を注排水することで生じる沈
力(重力)、浮力を利用し、潜航や浮上の運動をするのである。
 これが両者の相違点だが、前者はよほどの高空を飛ばない限
り圧力に左右される事はない、しかし、後者においては、この
圧力、即ち潜航中の船体にかかる、水圧が大きな問題になって
くる、これが飛行機と潜水艦の大いに異なる点である。
 而して、この水圧の大きさは、如何なるものか例にとれば、
潜水艦が水深100mの海中で、潜航時にうける水圧は、1平方m
あたり実に100tもの圧力を受ける事になるのだ。此の恐るべき
水圧に耐えながら、飛行機の如く三次元の運動を自由にするた
めには、頑丈な船殻が必要である事は勿論、潜航や浮上を容易
にするため、強力な注排水装置及び複雑な操舵装置等が必要に
なってくる。
 水中を自由に行動する潜水艦には、水上艦艇とは異なり多く
の舵をもっている。まず原則として、大型潜水艦が有する舵は
左右運動のための主舵である縦舵が艦尾水面下に、又水上航行
の時は水面上に出ている、上部縦舵という補助舵とが各1枚、
上下運動のための横舵が艦尾に2枚、潜航に使う潜舵が艦首に
2枚の、計6枚の舵をもっていた。
 船体は内殻と外殻の二重構造になっており、この内外殻間は
注排水区画と燃料タンクに充てられ、多くの区画に分かれてい
た。此の区画に、注排水する事により浮沈運動を行うのである
が、そのため艦内には各部所に通じる、諸々の配管類と管制装
置が艦内所ろ狭しと設置されていた。
 又水中を潜航しながら行動する潜水艦に於いては、艦橋など
上部構造物が、水上艦艇では受ける事がない、水の抵抗を受け
ることになり、その対策として艦橋の流線型化などのように、
極力抵抗の減少が求められた。

潜水艦の推進装置

 潜水艦の水上走航には内燃機関を動力としているのは普通の
水上艦艇と変わりは無いが、空気の供給が出来ない潜航走行時
には、燃料を燃焼させるための酸素を必要とする内燃機関では
使用が不能になる。それ故に、水中走行には電動機に依る電気
推進法を用いるのであるが、それには容量が大きくて軽い二次
電池を必要とした。
 潜水艦が走行するための推進装置には、主機である内燃機関
と、潜航中の動力となる電動機(モーター)、その電源となる蓄電器
(バッテリー)さらにそれを充電する発電機、そして推進器(スクリユウー)
とにより構成され、その組み合わせには大別すると二つの方式
がある。


 其の1 水上走行時には、主機の動力が、発電機兼電動機と
を回転させ、連結された軸により推進器に伝動、同時に発電機
は蓄電器を充電しながら航行する。そして潜航時には、主機を
停止させ電動機との間にあるクラッチにより離脱、課電された
蓄電池により電動機を駆動、推進器を回転させ走航する方式で
ある。
 此の方式は高速航行に有利であり、速力に重点を置いた日本
海軍の潜水艦では、一貫して此の方法が用いられた。また我が
日本海軍で設計された艦には、水中での航続距離を延伸するた
めに低速用の小型補助電動機を装備されたものが多かった。

 其の2 水上走行中でも電動機推進による方法で、主機の内
燃機関は発電用のために運転され、発電された電力により電動
機を駆動し、同時に充電を行いつつ直結された推進器を回転さ
せ走航する方法である。この方式でも、潜航時に主機を停止し
蓄電器からの電力供給により走航する事は前者と同じであるが
主機駆動の発電機と電動機の間にクラッチなどの機械的装置を
必要とせず、主機を停止させ電動機駆動時に、各機器の脱着に
電気的接続で手軽に操作できる利点がある。
 米国海軍の潜水艦で多く採用されていた。

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潜水艦特有の装置

 潜水艦は当初魚雷による攻撃だけを目的としていたが、発達
と共に艦型は大きくなり、砲銃の搭載は当然のように普及し、
日本海軍に於いては、航空機搭載のため格納筒や発進用射出機
を装備した艦まで現れ、更に少数であるが機雷敷設装置を持つ
機雷潜型も建造された。潜水艦の性能が向上するに従い、搭載
する諸装置も特有の物が発達し、それらの中には、日本潜水艦
独特の優れた装置が幾つかある。


@ 魚雷発射管
 初期の潜水艦では、上部構造物に固定した発射管や艦内舷側
式、また艦上に設置した旋回式発射管などが装備されていたが
その後、日本海軍では、大正後期より建造した全ての艦に艦首
又は艦尾に装備された水中固定式発射管に統一された。
 大正後期には53センチ魚雷を採用し、十年式潜水艦発射管が
正式化され、次いで一五式1型及び3型発射管が装備された。
併しこれらの発射管は魚雷装填後に走行深度や斜進角の調整が
不可能であり、また魚雷発射時に使用された空気が海面に浮き
上がり、発射位置を敵に発見される欠点があった。
 昭和6年には、八八式発射管が正式化され1型、1型改1、
2型、3型、3型改と改良されていった。此れは、ピストン式
無気泡発射管と呼ばれ、魚雷装填後でも管外より調整が可能で
また、魚雷発射にはピストンが押し出す方法を用いて、発射時
に気泡の放出されない方式であったが、此の方法には魚雷発射
後、水圧により押し戻されたピストンの衝撃で発射管に歪みを
生じさせる危険が有った。
 更に研究の結果、ピストンを用いずに空気が直接魚雷を押し
出した後に、空気の放出を防ぐ、断気弁方式を採用した九五式
潜水艦無気泡発射管が開発され、昭和16年以降に竣工した潜水
艦に装備された。なお九五式1型の他に、2型、3型、3型改
などの改良型が、その後に竣工した潜水艦に順次装備されてい
った。
A 発射指揮装置
 魚雷を発射し目標に命中させるには、その方位、距離、速力
など、その他諸々のデーターを測定し、解析された情報により
駆走深度と斜進角が調定された魚雷を、目標の予想到達位置に
向け発射しなければならない、それに必要となるのが方位盤や
照準器等の装置である。
 明治、大正時代に建造された初期の潜水艦では、まだ発射指
揮装置と呼ばれるものは装備されておらず、分度器と雷速尺と
呼ばれる物差しを組み合わせただけの、簡単な水雷方位盤が使
用されていた。
 昭和に成ってから、一四式潜水艦方位盤と呼ばれる装置が完
成し、日本海軍では始めて発射指揮装置と言えるものが装備さ
れた。その後、外国製を参考にして開発された九二式方位盤改
1が採用され、潜望鏡照準角自動追従装置と併せて使用された。
九二式が装備されると、発令所と発射管室との命令や応答が電
気的計器で表示、その情報を伝達するために多くの電路や指令
回路が設けられた。
 なを九八式対勢儀対勢盤や三式照準角発信機2型、等の装置
も開発され、昭和13年以降に竣工した一部の艦に装備されてお
り、また特殊潜航艇用に、軽量小型の五式方位盤3型、なども
あった。
B 潜望鏡
 潜水艦は潜航状態に入ると海上での視界は完全に遮断されて
盲人同然になる、洋上の様子を探るのに潜望鏡を水面より突出
させ、洋上を監視しつつ行動するのであるが、此の潜望鏡こそ
潜水艦が持つ独特の物で、魚雷攻撃の際に、必要な情報を得る
ための重要不可欠な装置でもある。
 初期の潜水艦には、潜望鏡が2本から3本装備され、第一が
攻撃用、第二が航海用、そして夜間用に第三潜望鏡が使用され
ていたが、全てが輸入されたものであった。しかしその後徐々
に国内でも生産が開始され、大正8年頃に建造された艦から次
第に国産品の潜望鏡が使用されていった。昭和になると輸入品
であるツァイス式3型潜望鏡をモデルに開発された、八八式9
メートル潜望鏡が制式化されて全艦に装備されていた。
 八八式には3型式あり、1型は航海用、3型は攻撃用、4型
は夜間用に使用されていたが、昭和5年より4型が夜間用と航
海用とを兼用するようになり、潜望鏡は1型を廃止し3型と4
型の2本のみとした。
 尚、八八式3型系は倍率変換機構を有し、倍率が 1.5倍の時
で視界40度、6倍で視界 9.5度になり、切り替えて使用するこ
とが出来、仰角は20度まで可能であった。また4型に於いては
仰角が80度までかけられ、対空警戒用や天測にも使用されてお
り、さらに九七式特眼鏡と呼ばれる特殊潜航艇用の攻撃と航海
兼用の潜望鏡も開発され、装備されていた。
C 自動懸吊装置
 従来潜水艦が一定の深度を保つためには、多数の乗員によっ
て潜舵、横舵の操作と各注排水区画に注排水を行い、又走航し
ていなければならなかった。そのために停止状態で一定深度を
保つ自動懸吊装置の研究が、潜水艦を保有する各国で試みられ
たが、海中では水温による比重の変化や潮流等、艦外の情況は
常に一定でなく、瞬間的に静止出来ても、長時間に浮量と重量
との吊り合いをとることは非常に困難であり、静止状態で一定
深度持続は実現できなかった。
 しかし、日本海軍では昭和15年、造船少佐により考案された
極めて簡単な方法で自動懸吊装置の難題が解決され、この装置
は伊号第74潜にて実験が行われ、結果が良好であった事から、
その後すぐさま全潜水艦に装備されていった。
 この装置とは、注排水量が浮沈量と比例することから、浮量
と重量の値が共に近くなるように、自動的に注排水を行い緩や
かな浮沈運動を繰り返し、調定深度より2メートル以上離れる
と装置が作動してもとの深度に復帰され、更に急激な浮沈運動
が起こり調定深度より7メートル以上離れた場合には、警報灯
とブザーにより警告を発するようになっていた。
 自動懸吊装置の完成は、艦が停止状態でも一定深度を持続出
来るようになり、潜航中に多くの乗員が休養をとれ、また電力
消費の節約や無音潜航をも可能にした。特に潜望鏡観測や超短
波通信のため、短波檣を海面より露頂させてる時に、艦が停止
状態でいる事は、敵に発見されにくい利点があり、作戦行動に
大きな貢献をした。
 本装置の資料は、考案者に携行され、訪独潜水艦(註)により
潜水艦先進国のドイツ海軍に譲渡されている。
(註)
訪独潜水艦クリック
D 重油漏洩防止装置
 本来、潜水艦に限らず艦船の船殻は全て鋲構造により造られ
ていたが昭和になってから、我が国でも電気溶接の技術が採り
入れられ、研究が始められた。しかし昭和6年頃までは、まだ
溶接技術の開発が遅れており、当時の造船に溶接構造を用いる
事は少なかった。だがその後、急速な技術の発達により広範囲
に溶接が使用されるようになったが、潜水艦には依然としてま
だ鋲構造が多く用いられていた。
 この鋲構造による重ね合せ部分からの重油漏洩が、潜水艦の
運用に大きな課題となっていた。潜航中に漏洩した重油は海面
に浮き上がり、航跡を残し敵に発見されやすく、艦の命取りに
なり兼ねないからである。
 重油漏洩の原因の一つは、内殻と外殻の二重構造の一部を重
油タンクに使用している構造にあった。其のタンクの低部には
艦外の海中に通じるように開口された管が設けられ、それによ
り潜航中に海水と重油タンクとはつながっていた。そのため水
圧がタンク壁に直接かかることはないが、海水と重油の比重差
により生じる力が外殻板上部にむけて重油を押し上げてしまう
この圧力は、1平方メートルに約1トンにもなり、このために
重油は微小な隙間からでも海中に押し出される事になる、これ
を防止するため次の方法が考えられた。
 非耐圧部の重油タンクに於いては、予め若干の海水をタンク
の低部に貯めておき、それを少しずつ常時吸引することでタン
ク内の重油圧を艦外の水圧より多少下げておく、これにより攻
撃を受け溶接部に亀裂が生じ、タンク内に海水の浸入があって
も、重油は艦外に漏洩することは無い。
 前述の方法により考案された装置が昭和16年に完成、直ちに
全艦に装備されていった、この装置は実戦に於いての爆雷攻撃
により発生した亀裂からの重油漏洩防止に対して大いなる効果
を発揮した。
 此の装置も、自動懸吊装置と共にドイツ海軍に送られている。

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運用法と型式

 潜水艦も未だ潜水艇と呼ばれていた初期の頃は、速度、航続
力、潜航深度などの諸性能は低く、船体の強度も十分ではない
当然、銃砲の装備はされず、潜水艇はもっぱら魚雷による攻撃
のみを手段とした、沿岸防御用ぐらいにしか考えていなかった。
 しかし、第一次世界大戦が始まるや、急速な発展をみた潜水
艦は速力、潜航深度、更に航続距離も増大され、長時間の潜航
にも耐え、隠密行動を可能にした強力な兵器に発達していた。
これにより魚雷攻撃、偵察行動、連絡任務、さらに艦型も大型
化されて輸送任務等と、特性を活かす事により幾多の用法を秘
める潜水艦に、各海軍とも性能向上や用法の研究に力を入れた。
 この潜水艦の運用に付いて第一次世界大戦後には、各国それ
ぞれの用兵方針に従い、目的に適応した型式の潜水艦を建造し
また訓練を行っていった。しかし第二次世界大戦が始まると、
其の戦闘方式は一変し、潜水艦の運用方針は情況に応じ、順次
変更を余儀なくされていったのである。
 アメリカ海軍では艦隊随伴用から通商破壊に、イギリス海軍
では多目的使用を考えていたが、地中海に於いての通商破壊戦
が成功した、唯一ドイツ潜水艦のみが一貫して通商破壊作戦に
徹底し、イギリス海軍に対し決定的大損害を与えることに成功
したのである。
 日本海軍の潜水艦隊は、主力艦隊の攻撃を主目的とした構想
の基に建造し、訓練されており、太平洋戦争においても基本的
には、その用法を変える事なく大半を戦い、多くの損失を出す
ことになった。しかし、戦争後期には、当初の目的を異にした
特殊攻撃や輸送を任務とする潜水艦も建造され、特異な作戦も
行われた。又太平洋戦争末期には、激減した潜水艦隊の残存兵
力をもって、太平洋上での通商破壊作戦を実施し大きな戦果を
挙げたが、時既に遅かったのである。
 本来、日本海軍の潜水艦は魚雷攻撃により敵主力艦を撃沈す
ることを第一の目的とし、強力な雷装を有する艦を建造して来
たが、開戦と同時に戦争様式も一変し、諸々の任務に適応でき
るように、特殊な施設を装備した日本海軍特有の潜水艦が計画
建造された。
 その中でも、最も特異なのは攻撃機を搭載し、米本土を攻撃
目標とした、潜水空母とも言える世界に類を見ない大型潜水艦
である。余談であるが、この大型潜水艦の建造記録は、1952年
に米海軍の原子力潜水艦「トライトン」が竣工されるまでは、
史上最大の潜水艦であった。
 日本海軍では、此の様な型式名で、分類をされてなかったが
艦のもつ機能を項目別に分けてみた。しかし、1隻の艦が複数
の機能を備えていたのが普通である。


@ 機雷潜
 大正の後期、ドイツ潜水艦 U117を参考にして建造した機雷
敷設を主任務とする伊号第21(後の伊号第 121)型潜水艦で、敷
設筒2基を艦尾に備え42個の機雷を搭載している。其のため、
雷装は艦首に発射管4門のみとされ攻撃力は減少されていた、
しかし本艦型は、太平洋戦争緒戦期には老艦にもかかわらず、
良く印度洋での作戦に耐え、ドイツ式潜水艦の優秀性を証明し
た。だが機雷潜は本艦型4隻だけにとどまり、後続艦は建造さ
れなかった。
A 巡洋潜水艦(巡潜型)
 巡潜型とは、第一次大戦中に活躍した、ドイツ潜水艦の優秀
な技術を導入するため独国技術者を招聘し、その指導のもとに
完成した「巡潜1型」に始まる。その後2型、3型と日本海軍独
自の改良が加えられ、速力より航続距離に重点を置き設計され
長期間南方での作戦が可能な大型潜水艦である。
 本艦型がもつ航続距離は、アメリカ西海岸まで往復し、さら
に余力で長期間の作戦行動ができ、特に3型に於いては潜水艦
として完璧の域に達し、後に建造された甲型、乙型、次いでは
丙型の母体とも成った艦型である。
 甲、乙、丙型においても、後期の改型では、主機械の都合で
速力を犠牲にし、航続距離を伸長した巡洋潜水艦とも言える艦
が建造された。
B 艦隊随伴型潜水艦
 日本海軍では早くより、艦隊と共に行動が出来る高速潜水艦
の完成を望んでいた。それは来るべきアメリカ主力艦隊の渡洋
進攻作戦を、南太平洋に於いて日本海軍が阻止しょうとする際
劣勢な主力艦戦力の差を、潜水艦の攻撃により補助するためで
ある。
 此の考えは、敵主力艦漸減作戦と称され、日本海軍が持つ潜
水艦用兵の基本的構想であった。これには艦隊と行動を共にで
きる高速潜水艦が絶対に必要であり、その建造に全力を注いで
いった。
 昭和9年、海大6型の竣工により、艦隊随伴に必要とされて
いた戦術速度23ノットの高速を得ることが出来、ここに艦隊随
伴型の完成を見た。続いて、これに改良を加え建造された、甲
乙、丙型さらに海大7型が、艦隊型と呼ばれる大型高速潜水艦
である。
C 旗艦型潜水艦
 潜水艦は3隻で1隊を組み潜水隊とし、3隊により1潜水戦
隊を構成するのを原則としていた。その1潜水戦隊毎に、司令
部施設を有して、旗艦となる潜水艦を常時1隻配置されていた。
此の旗艦潜水艦の指揮により、敵艦隊の発見や敵の情勢監視な
どを任務とした潜水隊は、広大な作戦海域を縦横無尽に活躍す
るのである。又潜水隊の索敵及び偵察活動などにより得られた
敵情は、旗艦潜水艦が無線通信をもって速やかに各潜水戦隊に
通報し、これにより日本潜水艦特有の高速を活かした潜水戦隊
は攻撃点に集結、敵艦隊に魚雷攻撃を加え、撃滅しようとした
のである。
 巡潜3型及び甲型潜水艦は、司令部設備のみならず、強力な
無線通信能力も備え、潜水戦隊を指揮するための旗艦型潜水艦
であった。
D 偵察機搭載艦
 航空機を潜水艦に搭載する計画は第一次大戦後、列国の海軍
で始められたが、全て試作、実験の段階で失敗、実用化する事
無く断念されていた。しかし、唯一日本海軍のみがこれを成功
させ実戦に活用したのである。伊号第51潜及び機雷潜伊21潜で
搭載、射出の両実験に成功を収め、新造時より「巡潜1型」伊号
第5潜水艦に偵察機搭載を決定、此処に航空機搭載潜水艦の第
一艦が完成された。
 その後建造された巡潜2型、3型さらに甲、乙型潜水艦は、
水偵搭載のため、格納筒及び射出装置を有する偵察機搭載型潜
水艦で、太平洋戦争緒戦に於いては航空機のもつ広大な偵察力
と、潜水艦の隠密性を活かし、よく索敵又偵察に長駆行動し、
充分に力を発揮した。
E 攻撃機搭載艦
 従来日本海軍が建造して来た潜水艦は、艦隊随伴あるいは索
敵、偵察を主目的としていたが、昭和17年に、今迄とは全く異
なった着想による潜水艦が計画された。此の潜水艦は水上攻撃
機2機〜3機を搭載する、潜水空母ともいえる特異なもので、
長駆アメリカ西海岸まで進出し、パナマ運河を攻撃しようとい
う戦略目的のため建造され、昭和19年末より20年にかけ竣工し
た。
 攻撃機搭載艦には、始めより此の目的で設計され特潜と呼ば
れる伊 400型と、甲型改に設計変更を加えた甲型改2伊13型の
2型式が有る。この両艦型の建造に当たっては極秘裡に進めら
れたが、完成を見た時すでに遅く、実戦に投入された頃、既に
戦況も極限に悪化し、当初の計画に使用される事は無く、従っ
て其の雄大な構想による戦果も、夢幻と化したのである。
F その他の潜水艦
 艦隊決戦の際、海大型の補助的な働きをする「海中型」「中型」
南方離島の航空基地を防御するため建造された局地防衛用潜水
艦「小型」呂100 型や、洋上で飛行艇に燃料、爆弾等の消耗物資
の補給を目的とした、補給潜水艦「潜補型」又陸戦隊と兵器など
を隠密裡に揚陸させる、輸送潜水艦「潜輸型、略称潜丁」など、
本来日本海軍が第一目標としてきた艦隊決戦型潜水艦とは別に
新しい用法による潜水艦が多く造られた。
 尚戦争末期には、特殊潜航艇「甲標的」や魚雷を母体とし改造
を加えた、必死必殺の特攻兵器である「蛟龍」や「回天」など、緒
戦には思いも付かなかった特殊な兵器が多く生産された。さら
に、実戦に投入される事なく終戦を迎えたが、水中を高速力で
行動し敵艦船を襲撃しようとする、画期的な水中高速潜水艦も
完成していた。

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2 潜水艦の発展

輸入、好意による建造

 太平洋戦争で自他ともに世界最強を誇った日本の潜水艦隊も
その草創期には、先駆者達の並々ならぬ苦労と努力、それによ
る進歩のかげに、生命をかけた殉職者の尊い犠牲があったこと
を忘れてはならない。
 日本の軍艦及び航空機製作の多くが、外国技術の導入により
始まったのと同じように、潜水艦の場合に於いても例外ではな
かった。その技術を日本独自のものとして確立する迄には、先
進国の指導の下、よく学び、吸収し更に改善を加え、遂に世界
の水準に達することが出来たのだ、しかし之れまでの道程には
英、米国の好意的協力に依存することが大きかったのである。
 日本海軍が潜水艇の購入を決定したのは、明治37年、日露戦
争の最中に、触雷により喪失した戦艦初瀬、八島の戦力を潜水
艇1隊の急きょ建造により、補充しようとした事が大きな要因
とされている。
 だがそれより先、明治34年8月既に、時の海相山本権兵衛は
潜水艇の採用を決し、海軍武官の井出大尉に対しホーランド型
潜水艇購入の目的で、その価格の打診を命令していたのである。
しかし、これは露国との感情的な事もあり、一応この案は取り
消されたが、この時、アメリカ海軍が潜水艇の採用を制式に決
めた直後のことであった。
 このような事にさきがけて井出大尉は、米海軍の一大尉の思
いもよらぬ好意により、当時絶対秘密である潜水艇の内部を見
るだけでなく、洋上での潜行運動を体験し又運用について詳し
い説明まで受ける事が出来た。
 日本海軍が早期において潜水艇の購入を決断できた要因の一
つとしては、未知であった潜水艇について、詳細な報告をした
井出大尉の功労も有るが、その裏には、こうした米海軍の親切
な行為に依るとこが大きかったのである。
 また、イギリス海軍に於いても同じような好意により、小栗
中佐は潜水艇の試乗を許され、5時間にも及ぶ、英国海軍士官
に依る潜航その他、運用法などの実施、実演により潜水艇のも
つ戦闘価値や将来性を学んでいた。
 この英、米両国の協力により発展の基礎を作った日本の潜水
艦隊がその後、太平洋で敵として戦おうとは、この時誰も知る
由もなかったであろう。
 明治37年6月13日、日本海軍は潜水艇に試乗経験を持つ井出
小栗の両海軍士官の進言をもとに、その潜水艇購入を決定し、
米国エレクトリック・ボート社に、ホーランド型潜水艇5隻を
発注した。同社にて徹夜作業で建造された本艇は一度解体され
た後、日本に運ばれ、明治37年11月22日早くも横浜に到着、続
いて12月上旬には材料、全部品が揃えられた。
 組み立ては横須賀に於いて直ちに行われ、翌38年7月に1号
艇が竣工、それを待ちかねていたかのように、米国人技師と操
縦員に付いて、操縦法や運用に必要な知識の習得に努めた。
 10月に至りては、全艇5隻の竣工を見、明治38年11月1日、
1号艇から5号艇による「第一潜水艇隊」が編成され、この年
11月末に行われた凱旋観艦式に参加し、御召艦の前で、航行、
潜航など戦技を演じる栄誉を得た。
 ホーランド型購入の契約後、間もなく、本艇の設計者である
ホーランド氏の好意により、新型艇の図面を入手出来た川崎造
船所では、これを機会に日本人による建造を試み、異常な熱意
のもと、見事に6号艇と7号艇の国産潜水艇を完成させたので
ある。明治39年3月、これら2隻により「第二潜水艇隊」が組
まれ、潜水艇の整備が順調に進みつつあった。
 しかし明治43年4月15日、6号艇は瀬戸内海において内燃機
関による潜航走行実験中に(今日のシュノーケル走行)事故の
ため沈没し、佐久間艇長以下14名の殉職者を出したのである。
だがその後浮上させた艇内より、艇長の遺書とも言える手記が
発見された。
 その浮力を失い海底に鎮座せる艇内で、迫り来る死と直面し
ながら書き綴られた文面には、沈没の原因とその対策に始まり
今後、艇の改善を要する諸点、更には潜水艇乗員として必要な
沈着冷静にして勇敢な資格条件などが綿々と書き記され、最後
に、部下は冷静忠実に職務を全うし、責任は全て自分にある事
を示唆し終わっていた。この遺書はその後潜水艦乗りの教本と
され、日本海軍において潜水艦発展の大きな礎になったことは
間違いないであろう。
 潜水艇の建造は、このように外国の協力と我が国の努力、更
には尊い犠牲のもとに進められていったのである。

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