運用法と型式
潜水艦も未だ潜水艇と呼ばれていた初期の頃は、速度、航続
力、潜航深度などの諸性能は低く、船体の強度も十分ではない
当然、銃砲の装備はされず、潜水艇はもっぱら魚雷による攻撃
のみを手段とした、沿岸防御用ぐらいにしか考えていなかった。
しかし、第一次世界大戦が始まるや、急速な発展をみた潜水
艦は速力、潜航深度、更に航続距離も増大され、長時間の潜航
にも耐え、隠密行動を可能にした強力な兵器に発達していた。
これにより魚雷攻撃、偵察行動、連絡任務、さらに艦型も大型
化されて輸送任務等と、特性を活かす事により幾多の用法を秘
める潜水艦に、各海軍とも性能向上や用法の研究に力を入れた。
この潜水艦の運用に付いて第一次世界大戦後には、各国それ
ぞれの用兵方針に従い、目的に適応した型式の潜水艦を建造し
また訓練を行っていった。しかし第二次世界大戦が始まると、
其の戦闘方式は一変し、潜水艦の運用方針は情況に応じ、順次
変更を余儀なくされていったのである。
アメリカ海軍では艦隊随伴用から通商破壊に、イギリス海軍
では多目的使用を考えていたが、地中海に於いての通商破壊戦
が成功した、唯一ドイツ潜水艦のみが一貫して通商破壊作戦に
徹底し、イギリス海軍に対し決定的大損害を与えることに成功
したのである。
日本海軍の潜水艦隊は、主力艦隊の攻撃を主目的とした構想
の基に建造し、訓練されており、太平洋戦争においても基本的
には、その用法を変える事なく大半を戦い、多くの損失を出す
ことになった。しかし、戦争後期には、当初の目的を異にした
特殊攻撃や輸送を任務とする潜水艦も建造され、特異な作戦も
行われた。又太平洋戦争末期には、激減した潜水艦隊の残存兵
力をもって、太平洋上での通商破壊作戦を実施し大きな戦果を
挙げたが、時既に遅かったのである。
本来、日本海軍の潜水艦は魚雷攻撃により敵主力艦を撃沈す
ることを第一の目的とし、強力な雷装を有する艦を建造して来
たが、開戦と同時に戦争様式も一変し、諸々の任務に適応でき
るように、特殊な施設を装備した日本海軍特有の潜水艦が計画
建造された。
その中でも、最も特異なのは攻撃機を搭載し、米本土を攻撃
目標とした、潜水空母とも言える世界に類を見ない大型潜水艦
である。余談であるが、この大型潜水艦の建造記録は、1952年
に米海軍の原子力潜水艦「トライトン」が竣工されるまでは、
史上最大の潜水艦であった。
日本海軍では、此の様な型式名で、分類をされてなかったが
艦のもつ機能を項目別に分けてみた。しかし、1隻の艦が複数
の機能を備えていたのが普通である。
@ 機雷潜
大正の後期、ドイツ潜水艦 U117を参考にして建造した機雷
敷設を主任務とする伊号第21(後の伊号第 121)型潜水艦で、敷
設筒2基を艦尾に備え42個の機雷を搭載している。其のため、
雷装は艦首に発射管4門のみとされ攻撃力は減少されていた、
しかし本艦型は、太平洋戦争緒戦期には老艦にもかかわらず、
良く印度洋での作戦に耐え、ドイツ式潜水艦の優秀性を証明し
た。だが機雷潜は本艦型4隻だけにとどまり、後続艦は建造さ
れなかった。
A 巡洋潜水艦(巡潜型)
巡潜型とは、第一次大戦中に活躍した、ドイツ潜水艦の優秀
な技術を導入するため独国技術者を招聘し、その指導のもとに
完成した「巡潜1型」に始まる。その後2型、3型と日本海軍独
自の改良が加えられ、速力より航続距離に重点を置き設計され
長期間南方での作戦が可能な大型潜水艦である。
本艦型がもつ航続距離は、アメリカ西海岸まで往復し、さら
に余力で長期間の作戦行動ができ、特に3型に於いては潜水艦
として完璧の域に達し、後に建造された甲型、乙型、次いでは
丙型の母体とも成った艦型である。
甲、乙、丙型においても、後期の改型では、主機械の都合で
速力を犠牲にし、航続距離を伸長した巡洋潜水艦とも言える艦
が建造された。
B 艦隊随伴型潜水艦
日本海軍では早くより、艦隊と共に行動が出来る高速潜水艦
の完成を望んでいた。それは来るべきアメリカ主力艦隊の渡洋
進攻作戦を、南太平洋に於いて日本海軍が阻止しょうとする際
劣勢な主力艦戦力の差を、潜水艦の攻撃により補助するためで
ある。
此の考えは、敵主力艦漸減作戦と称され、日本海軍が持つ潜
水艦用兵の基本的構想であった。これには艦隊と行動を共にで
きる高速潜水艦が絶対に必要であり、その建造に全力を注いで
いった。
昭和9年、海大6型の竣工により、艦隊随伴に必要とされて
いた戦術速度23ノットの高速を得ることが出来、ここに艦隊随
伴型の完成を見た。続いて、これに改良を加え建造された、甲
乙、丙型さらに海大7型が、艦隊型と呼ばれる大型高速潜水艦
である。
C 旗艦型潜水艦
潜水艦は3隻で1隊を組み潜水隊とし、3隊により1潜水戦
隊を構成するのを原則としていた。その1潜水戦隊毎に、司令
部施設を有して、旗艦となる潜水艦を常時1隻配置されていた。
此の旗艦潜水艦の指揮により、敵艦隊の発見や敵の情勢監視な
どを任務とした潜水隊は、広大な作戦海域を縦横無尽に活躍す
るのである。又潜水隊の索敵及び偵察活動などにより得られた
敵情は、旗艦潜水艦が無線通信をもって速やかに各潜水戦隊に
通報し、これにより日本潜水艦特有の高速を活かした潜水戦隊
は攻撃点に集結、敵艦隊に魚雷攻撃を加え、撃滅しようとした
のである。
巡潜3型及び甲型潜水艦は、司令部設備のみならず、強力な
無線通信能力も備え、潜水戦隊を指揮するための旗艦型潜水艦
であった。
D 偵察機搭載艦
航空機を潜水艦に搭載する計画は第一次大戦後、列国の海軍
で始められたが、全て試作、実験の段階で失敗、実用化する事
無く断念されていた。しかし、唯一日本海軍のみがこれを成功
させ実戦に活用したのである。伊号第51潜及び機雷潜伊21潜で
搭載、射出の両実験に成功を収め、新造時より「巡潜1型」伊号
第5潜水艦に偵察機搭載を決定、此処に航空機搭載潜水艦の第
一艦が完成された。
その後建造された巡潜2型、3型さらに甲、乙型潜水艦は、
水偵搭載のため、格納筒及び射出装置を有する偵察機搭載型潜
水艦で、太平洋戦争緒戦に於いては航空機のもつ広大な偵察力
と、潜水艦の隠密性を活かし、よく索敵又偵察に長駆行動し、
充分に力を発揮した。
E 攻撃機搭載艦
従来日本海軍が建造して来た潜水艦は、艦隊随伴あるいは索
敵、偵察を主目的としていたが、昭和17年に、今迄とは全く異
なった着想による潜水艦が計画された。此の潜水艦は水上攻撃
機2機〜3機を搭載する、潜水空母ともいえる特異なもので、
長駆アメリカ西海岸まで進出し、パナマ運河を攻撃しようとい
う戦略目的のため建造され、昭和19年末より20年にかけ竣工し
た。
攻撃機搭載艦には、始めより此の目的で設計され特潜と呼ば
れる伊 400型と、甲型改に設計変更を加えた甲型改2伊13型の
2型式が有る。この両艦型の建造に当たっては極秘裡に進めら
れたが、完成を見た時すでに遅く、実戦に投入された頃、既に
戦況も極限に悪化し、当初の計画に使用される事は無く、従っ
て其の雄大な構想による戦果も、夢幻と化したのである。
F その他の潜水艦
艦隊決戦の際、海大型の補助的な働きをする「海中型」「中型」
南方離島の航空基地を防御するため建造された局地防衛用潜水
艦「小型」呂100 型や、洋上で飛行艇に燃料、爆弾等の消耗物資
の補給を目的とした、補給潜水艦「潜補型」又陸戦隊と兵器など
を隠密裡に揚陸させる、輸送潜水艦「潜輸型、略称潜丁」など、
本来日本海軍が第一目標としてきた艦隊決戦型潜水艦とは別に
新しい用法による潜水艦が多く造られた。
尚戦争末期には、特殊潜航艇「甲標的」や魚雷を母体とし改造
を加えた、必死必殺の特攻兵器である「蛟龍」や「回天」など、緒
戦には思いも付かなかった特殊な兵器が多く生産された。さら
に、実戦に投入される事なく終戦を迎えたが、水中を高速力で
行動し敵艦船を襲撃しようとする、画期的な水中高速潜水艦も
完成していた。
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2 潜水艦の発展
輸入、好意による建造
太平洋戦争で自他ともに世界最強を誇った日本の潜水艦隊も
その草創期には、先駆者達の並々ならぬ苦労と努力、それによ
る進歩のかげに、生命をかけた殉職者の尊い犠牲があったこと
を忘れてはならない。
日本の軍艦及び航空機製作の多くが、外国技術の導入により
始まったのと同じように、潜水艦の場合に於いても例外ではな
かった。その技術を日本独自のものとして確立する迄には、先
進国の指導の下、よく学び、吸収し更に改善を加え、遂に世界
の水準に達することが出来たのだ、しかし之れまでの道程には
英、米国の好意的協力に依存することが大きかったのである。
日本海軍が潜水艇の購入を決定したのは、明治37年、日露戦
争の最中に、触雷により喪失した戦艦初瀬、八島の戦力を潜水
艇1隊の急きょ建造により、補充しようとした事が大きな要因
とされている。
だがそれより先、明治34年8月既に、時の海相山本権兵衛は
潜水艇の採用を決し、海軍武官の井出大尉に対しホーランド型
潜水艇購入の目的で、その価格の打診を命令していたのである。
しかし、これは露国との感情的な事もあり、一応この案は取り
消されたが、この時、アメリカ海軍が潜水艇の採用を制式に決
めた直後のことであった。
このような事にさきがけて井出大尉は、米海軍の一大尉の思
いもよらぬ好意により、当時絶対秘密である潜水艇の内部を見
るだけでなく、洋上での潜行運動を体験し又運用について詳し
い説明まで受ける事が出来た。
日本海軍が早期において潜水艇の購入を決断できた要因の一
つとしては、未知であった潜水艇について、詳細な報告をした
井出大尉の功労も有るが、その裏には、こうした米海軍の親切
な行為に依るとこが大きかったのである。
また、イギリス海軍に於いても同じような好意により、小栗
中佐は潜水艇の試乗を許され、5時間にも及ぶ、英国海軍士官
に依る潜航その他、運用法などの実施、実演により潜水艇のも
つ戦闘価値や将来性を学んでいた。
この英、米両国の協力により発展の基礎を作った日本の潜水
艦隊がその後、太平洋で敵として戦おうとは、この時誰も知る
由もなかったであろう。
明治37年6月13日、日本海軍は潜水艇に試乗経験を持つ井出
小栗の両海軍士官の進言をもとに、その潜水艇購入を決定し、
米国エレクトリック・ボート社に、ホーランド型潜水艇5隻を
発注した。同社にて徹夜作業で建造された本艇は一度解体され
た後、日本に運ばれ、明治37年11月22日早くも横浜に到着、続
いて12月上旬には材料、全部品が揃えられた。
組み立ては横須賀に於いて直ちに行われ、翌38年7月に1号
艇が竣工、それを待ちかねていたかのように、米国人技師と操
縦員に付いて、操縦法や運用に必要な知識の習得に努めた。
10月に至りては、全艇5隻の竣工を見、明治38年11月1日、
1号艇から5号艇による「第一潜水艇隊」が編成され、この年
11月末に行われた凱旋観艦式に参加し、御召艦の前で、航行、
潜航など戦技を演じる栄誉を得た。
ホーランド型購入の契約後、間もなく、本艇の設計者である
ホーランド氏の好意により、新型艇の図面を入手出来た川崎造
船所では、これを機会に日本人による建造を試み、異常な熱意
のもと、見事に6号艇と7号艇の国産潜水艇を完成させたので
ある。明治39年3月、これら2隻により「第二潜水艇隊」が組
まれ、潜水艇の整備が順調に進みつつあった。
しかし明治43年4月15日、6号艇は瀬戸内海において内燃機
関による潜航走行実験中に(今日のシュノーケル走行)事故の
ため沈没し、佐久間艇長以下14名の殉職者を出したのである。
だがその後浮上させた艇内より、艇長の遺書とも言える手記が
発見された。
その浮力を失い海底に鎮座せる艇内で、迫り来る死と直面し
ながら書き綴られた文面には、沈没の原因とその対策に始まり
今後、艇の改善を要する諸点、更には潜水艇乗員として必要な
沈着冷静にして勇敢な資格条件などが綿々と書き記され、最後
に、部下は冷静忠実に職務を全うし、責任は全て自分にある事
を示唆し終わっていた。この遺書はその後潜水艦乗りの教本と
され、日本海軍において潜水艦発展の大きな礎になったことは
間違いないであろう。
潜水艇の建造は、このように外国の協力と我が国の努力、更
には尊い犠牲のもとに進められていったのである。
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