日本潜水艦史

三章 潜水艦の戦い


   6 潜水艦の戦い終章

   (一)潜水艦用兵術の是非

      日本海軍が潜水艦の保有を決定したのは、日露戦争中に触雷で一挙に二大
     戦艦を失い、その戦力補填であった事に端を発するが、完成前に戦争は終結
     その効果を知ることは出来なかった。その頃は、まだ潜水艦と言うより潜水
     艇であり、潜水艇隊と言っても名ばかりで、戦力としては程ど遠い物であり
     完成していても大した戦果は無かったであろう。しかし、その後の潜水艇は
     大型となるに従い、潜水艦として急速に発達して行き、第1次大戦の頃には
     強力な兵器に発展していた。
      第一次大戦で戦勝国となった日本海軍は、南洋諸島の統治権を得ると同時
     にそれを保持すべき強力な海軍の整備に着手した。だが此れを脅威とした米
     英両国は、日本海軍に対して2回に亘る軍縮会議で、劣勢比率の軍備制限を
     課せて来た。大正11年のワシントン条約では主力艦の建造に、昭和5年のロ
     ンドン条約では補助艦艇にも過酷な制限を受けたのである。これにより主力
     艦の劣勢を補うため、決められた保有量の枠内で強力で高性能な艦艇を建造
     し海軍力を確保しなければならなかった。
      このような情勢下で創られた日本の潜水艦隊は、当然のように他の列強海
     軍国のそれとは異なった構想の元で発展し、戦術を確立していった。それは
     米英独の潜水艦が洋上で通商破壊作戦を重視したのに対し、日本の潜水艦は
     「漸減作戦」所謂、敵主力艦を追躡、決戦前に敵主力の漸減を図り、更には
     艦隊に随伴し決戦に参加、我が主力艦を有利に導こうとするものであった。
     それ故、列国の潜水艦より高速で長航続力を有し、更には航空機を搭載する
     強力な潜水艦隊を整備し、開戦を向かえた。
      しかし、戦闘様式は一変して主力は戦艦から航空機へ、戦場も遠く南太平
     洋に変わっていた。米主力艦は開戦と同時に真珠湾で壊滅し、目標を失った
     潜水艦の多くは拡大された戦場に投入され、水上艦船では補給困難になった
     ソロモン方面の離島への物資輸送や、敵主要港湾への襲撃など、これまでに
     予想もしなかった作戦を強いられ消耗していった。
      艦隊決戦時に、敵主力の漸減を主な任務として鍛え上げて来た日本海軍の
     潜水艦は、皮肉にも、日本艦隊が総力を挙げたマリアナ沖、レイテ湾突入の
     二度に亘る決戦時には、すでに戦力不足で戦果をあげることは出来なかった。
     大きな期待を担い整備されながら、際立った活躍を見ずに終わった潜水艦を
     酷評する向きもあるが、要因は潜水艦側に非が有るのではなく、むしろ海軍
     首脳部の時代錯誤に原因が有ったのではないのか。
      既に、昭和16年12月8日の真珠湾奇襲作戦で、ハワイ近海で作戦行動して
     いた第2、第3潜水戦隊の司令官や艦長達が帰国後、作戦の実感を率直に述
     べていた。その意見とは「潜水艦で、防備された敵の要港や警戒厳重な艦隊
     などを攻撃しても成功の率は低く戦果甚だ疑わしい、潜水艦の本命はやはり
     敵の輸送要衝に散開し商船を狙うべきだ」と言うのであった。
      而して、そうであるならば、日本海軍がこれまで二十数年、主力艦攻撃に
     訓練を積み上げてきた戦法は無駄になるのか、と言って実戦者の意見を聞く
     なら、日本の潜水艦は軍艦襲撃を基本に設計されており魚雷の搭載数が少な
     い、これで商船を狙い遠方まで出撃、補給なしで潜水艦を有効に活用出来る
     のか、海軍首脳部では此れまでの軍艦攻撃も捨てきれず、又戦場からの声も
     無視できずジレンマに陥っていた。この迷いに決断を下せぬまま不徹底なる
     作戦を継続、唯いたずらに損傷を大きくしていった。
      事実、太平洋戦争ではレーダーの出現に加え、ソナー、ヘッジホッグ等と
     飛躍的に発達した此れらの対潜兵器を搭載した護衛艦艇、空母艦載機が艦隊
     周囲の守りを固めており、此れに対して従来どうりの兵器を以っての攻撃は
     至酷の極みであったであろう。又、物量に任せ押し寄せる米艦隊の前に制海
     制空権を失った洋上で、孤立した離島基地への物資補給も、当初では予想も
     しなかった作戦であり、乗員達の苦労も計り知れない。
      しかし、開戦前までは海軍首脳部も考えても見なかった戦場の拡大、続く
     戦局の激変に耐え良く戦った。開戦初頭の17年1月12日ハワイ海域において
     真珠湾で討ちもらした空母群の一隻、サラトガを雷撃し復旧迄4ヶ月の損傷
     を与えたのを始め、6月7日ミッドウェー海戦では空母ヨークタウン撃沈。
     ソロモン海域では水雷区域なるものを形成、ここに散開行動する日本潜水艦
     は、修理完了し出撃間もないサラトガの再度雷撃、又空母ワスプを攻撃して
     自沈に追い込み、米空母陣4隻の内行動出来るのは唯1隻のみに迄追い込む
     戦果を挙げたり、更に、この水雷区域をトーピドウ・ジャンクションの名で
     恐れた米戦艦部隊が此れを避け、戦場到着を10時間も遅らせてしまい戦闘に
     間に合わず、日本軍を有利に導くなど潜水艦の間接的働きにも大いなるもの
     があった。
      又敵の制空権下を潜り抜け点在する離島への輸送任務では、目前で敵潜水
     艦がわが輸送船を攻撃し交通遮断に成果を挙げているのを尻目に、正業を放
     棄し唯一の攻撃武器である魚雷に代え輸送物資を搭載し出撃して行った。此
     れは攻撃一筋に訓練をつんできた潜水艦乗りにして屈辱の何ものでもなかっ
     た、しかし彼らはその輸送作戦にお国のためと耐え忍び、黙々と従事し任務
     を果たし、それは飢餓に苦しむ離島の将兵の命を救った。又後退を余儀なく
     された部隊の救出作戦など、隠れた働きも忘れてはならないだろう。
            詳しくは (第三章 潜水艦の戦い)
           
ハワイ海域と米西海岸  東南アジアと北方海域
           ガダルカナル争奪戦   ソロモン海域の戦い を参照
                      


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   (二)潜水艦隊敗北の要因

      太平洋戦争後、米国太平洋艦隊司令長官であった、ニミッツ大将が著した
    「太平洋戦史」の中で日本の潜水艦について「これほど強力で期待された兵器
     が、まったくその能力を発揮しなかったという事実は、史実上類をみない希
     有の例である」と述べている。事実その言葉を甘んじて受けなければならな
     いだろう。日本海軍は就役中の潜水艦60隻で戦争に突入、戦争中に 114隻を
     竣工させ 130隻以上が喪失、終戦時作戦可能な潜水艦はわずか4隻に過ぎな
     かった。まさに惨敗である。しかし、それは良く戦って敗れた、と言っても
     過言ではない。
      米潜水艦の活躍が昭和19年になってからであったのに対し、日本の潜水艦
     がそれまでに連合軍側にあたえた損害はそれよりはるかに大きかった。例を
     あげるならば、伊号第6潜水艦の米空母サラトガの大破、伊号 168潜がミッ
     ドウェー海戦では空母ヨークタウンを、更に伊19潜はワスプを撃沈していた。
     だが、それに比べて米潜水艦は日本の主力艦を一隻とも撃沈していなかった
     のだ。それでは何故、戦争中期以後日本の潜水艦は、真価を発揮出来ず敗北
     を期したのか、その要因を追究してみよう。
      近代戦は、消耗戦であった。予想をはるかに超えた、損失を補う力を未だ
     日本の工業力は持っていなかった。戦局が不利になったとき必ず持ち出され
     るのが便宜上の作戦またその使用である、潜水艦の便宜使用も例外ではなか
     った。潜水艦は敵の制圧する海域でも、潜行し行動できるという便利な要素
     があるからで、それが故、潜水艦の真の使用法を全く理解してない軍上層部
     により便宜使用されてしまう、度重なる便宜使用が本来の作戦に支障きたし、
     潜水艦の真の価値を奪ってしまった事は大きい。
      それが顕著にあらわれたのがガダルカナル島争奪戦であった。駆逐艦によ
     る「東京急行」と呼ばれた補給作戦が、航空戦の消耗で制空権を失い不可能
     になると、これまでの輸送任務を便宜上、潜水艦によって行ったのである。
     潜水艦は戦闘艦である、いかなる戦況にあろうとも「敵艦船の轟沈」唯一つ
     を使命として鍛えられてきた、魚雷に換え救援物資を搭載、戦闘を禁じられ
     敵艦船を尻目に無念の歯を食いしばり、輸送任務に従事した乗組員の胸中い
     かばかりか、察して余りある。この補給作戦は戦局の移行に伴い、南太平洋
     に散在する日本軍基地に広がり、太平洋戦争全期間の喪失艦127隻のうち、
     三割にもなる40隻余りも失っている。
      補充が出来ない故に、無理な作戦を強いられ、ただ犠牲を多くしていった
     要因の幾つかには工業力、謂わば、生産力の弱さに加えて、個艦の性能向上
     を狙った結果、艦型が多くなり量産に向かなかった日本の潜水艦の性質にも
     あった。また潜水艦に対する、使用価値観の欠如と切り替えの遅れも挙げる
     事ができるだろう。輸送作戦に苦慮した海軍は、戦訓に習い南方離島への補
     給潜水艦建造に着手したが、完成時既に遅く、輸送すべき南方の基地は敵の
     手中に落ちていた。
      就役した補給型潜水艦の幾隻かが、本来の目的に用いられたのみで、後は
     人間魚雷「回天」の母艦とし、敵艦船集結する警戒厳重な泊地に突入、多く
     が散華して逝った。ここにも、当初の用途に使われなかった、潜水艦便宜使
     用の空しさが表れている。
      生産力の低さと使用価値観の欠如が、便宜使用を引きを起こし、優秀であ
     るはずの潜水艦を、真価が発揮できないままに、敗北の道をたどらせる原因
     を作ったとするならば、経済力の弱さに加え、自己の自惚れにより科学力の
     進化を侮り、新兵器の研究を怠った事も否めない。
      日本海軍は酸素魚雷という、世界に誇る優秀な魚雷に恵まれた、しかし、
     それは又高価なものでもあった。それ故に、潜水艦での使用本数が軍上層部
     より規制されていた、商船と駆逐艦には一本、巡洋艦には三本が許され、全
     斉射六本が許されていたのは空母と戦艦だけであり、商船と駆逐艦に二本目
     の発射は禁止されていた。
      魚雷を敵艦に命中させるには、目標の方位、距離、速力、目標の方位角な
     どを観測、複雑な諸元を算出し、魚雷に必要な斜進角と駆走深度を調定した
     上で、目標の未来位置に発射しなければならない。算出に少しの誤差があっ
     ても目標には命中しない、そこで数本の魚雷を扇状に散開発射して、魚雷の
     本数で解析の誤差を補い、命中の精度を高めるのが魚雷発射の原則である。
     発射数の制限は命中率を下げ、巡洋艦級では一、ニ本の命中では沈没に至る
     ことは少なく、米国の優れた工業力は短期間に修復、戦場に復帰させた。
      又、列国の潜水艦は目標の情報を解析する装置を備えていた、米国はTD
     C、英国はフルーツ・マシン、独国では魚雷発射解析版などの発射指揮装置
     が開発され、魚雷の命中率向上に大きな役割を果たしていた。この装置に目
     標の情報を入力する機器が潜望鏡や、電探(レーダー)、ソナーであり、特に
     米潜水艦のレーダーは正確な情報を入手することが出来た。
      戦争初期では、日本海軍の優秀な見張り員の眼力は、米海軍レーダーより
     勝っていた。その自惚れは日本軍の電探開発を遅らせ、気づいたとき既に遅
     く、進歩した米軍のレーダーに、行く手を阻まれる結果になった。日本海軍
     の潜水艦に、レーダー装備の遅れを嘆き、レーダーの装備を切望した艦長が
     いた、その人こそ、米重巡インディアナポリスを撃沈した橋本少佐である。
      米潜水艦の戦果の多くはレーダー使用による奇襲攻撃であった。潜水艦の
     視界は潜望鏡から望める、精々十数哩でしかない。この事からもレーダーは
     潜水艦にこそ真っ先に装備されるべきもので、潜水艦の生存のためにも必須
     の装置であった。
      また、潜水艦が戦果を挙げるのに必要不可欠なものは情報である。米、英
     国は共に情報網を張り、その有名なウルトラ情報を十分に活用し、敵の船団
     や艦隊の動きを事前に察知して、その要所に潜水艦を散開させた。これに比
     して、日本海軍は開戦から終戦まで、このような情報網を形成をする努力を
     怠り、因って日本の潜水艦は、その情報配布の恩恵を受けたことも無かった。
     当時の潜水艦の情報収集範囲は潜望鏡の視界範囲だけである、これで大海を
     行動する敵と遭遇することは、並外れた幸運といったほうがよかった。
      省みれば、日本の潜水艦はレーダーも、高性能のソーナーも無く、目標の
     情報解析の計算機すら無く、唯、潜望鏡観測の練度だけで魚雷を命中させな
     ければならい、このような悪条件のもとで魚雷を命中させ、戦い続けた日本
     の潜水艦乗員、艦長の腕前こそ、見事だったと称賛して余りある。
      これまで、太平洋戦争における日本潜水艦の惨敗の原因を追究してきたが、
     列挙した事柄の欠如が、一つでも潜水艦を致命的結果に陥れるものである。
     日本潜水艦の唯一誇れたものは、優秀な魚雷と乗組員の質の高さであった。
     そしてこの乗組員の優秀さは、現在日本の海を守る海上自衛隊にもそのまま
     引き継がれている。
      多大な犠牲を払い、築き残してくれた先人たちの実績を十分活用し、現在
     海上自衛隊の潜水艦で勇躍する艦長、乗組員たちが、真の「ドンがめ乗り」に
     育つことを期待して止まない。


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   (三)潜水艦隊最後を飾る

       昭和19年末頃には、比島攻防をかけたレイテ沖開戦で潰滅的打撃を受け
      た連合艦隊は既に、洋上で敵艦隊に戦いを挑む力を失い、唯、第六艦隊い
      わば潜水艦隊のみが水中より敵影を求め行動していた。だが、第六艦隊の
      兵力には嘗ての威容はなく、特攻兵器「回天」を搭載することで攻撃に使用
      可能となった補給潜水艦や、今は旧式の海大型潜水艦を含む十数隻でしか
      なかった。しかし、独り「回天」のみが、敵の電探(レーダー)水測兵器など
      の悪条件の中、能く敵艦隊泊地に潜入して戦果を挙げていた。この「回天」
      こそ太平洋戦争の末期において最も期待された兵器であり、洋上における
      敵艦船攻撃に、終戦まで戦いつづけた。
        (「回天」の詳細は
特攻兵器への道此処をクリック)
       魚雷戦は常に奇襲の形において行われるが、余程の好条件に恵まれない
      限り完全な命中は望めない、だが「回天」に於いては殆ど百発百中であり、
      その破壊力は通常魚雷の2倍以上であった。この信じ難き威力の根源には
      日本海軍が世界に誇る極秘兵器、酸素魚雷を動力とし、東部に1.5tの炸薬
      を装填、これを人間が操縦することにあった。それは真珠湾の特殊潜航艇
      と比較にならない命中率と破壊力を有し、航跡を見せず忍び寄る人間魚雷
      は米海軍に大なる脅威を与えた。
       回天戦が実施された後、海軍部内ではある程度の戦果を知っていたが、
      潜水艦の攻撃では魚雷発射後、敵の爆雷攻撃に備え直ちに海中深く潜行し、
      聴音による魚雷の走行状態、敵艦への到達秒時の爆発音により戦果を判断
      するのみで、詳細を知ることはできなかった。
       しかし、終戦直後に日本陸海軍と外務省の代表が、戦後処理の打ち合わ
      せでマニラに招致された時、米軍サザーランド参謀が日本海軍の代表に対
      し質した第一声は「回天を搭載の潜水艦は海上にまだいるのか」であり、
      日本側の、まだ7隻が行動中である旨の回答に「それは大変、即刻降伏を
      電達、帰還させよ」であった。戦争終結直後に米軍の出した指令第一号は
      洋上に展開する回天搭載潜水艦の緊急迅速な帰国対策で、これは空からの
      神風特攻と同様に、米艦艇の将兵に強烈な衝撃を与えた心理的効果は大き
      く、如何に彼らを恐怖のどん底に陥れていたかを知る事ができた。
       この「回天」作戦が急激に戦果を挙げだしたのは、昭和20年4月以降か
      らである。此れまで、日本海軍の潜水艦は専ら艦隊攻撃や港湾突入を主と
      し、戦争末期を迎えていた。昭和19年11月菊水隊の出撃に始まった特攻攻
      撃は、金剛、多々良隊と続いたが、此れも例外なく、航空特攻「神風」と
      同様に、同一方に指向されており、この攻撃は回を増すごとに敵の警戒を
      厳重なものにし、敵艦船の集結する泊地攻撃に於いては、強化された防潜
      網、対潜攻撃に阻まれ、決死の攻撃隊を唯いたずらに失う結果となり、継
      続困難になった。
       そこで潜水艦隊司令部は攻撃法を一新、「潜水艦は、敵の防備されたる
      港湾や、警戒厳重なる艦隊などに対して攻撃を指向するも、損失大に対し、
      戦果甚だ疑わしい、潜水艦の持つ脆弱性を掩護するする最良の用法は、そ
      の長大なる航続性と隠匿性を利用し、広い洋上に待機して敵の補給路を断
      ち、且つ、艦船を撃つ事が最良の用法である」と、第六艦隊の水雷参謀、
      鳥巣建之助中佐が連合艦隊司令部に職を賭して力説、奔走した結果、よう
      やく、試験的に2隻の潜水艦を洋上に待機させて敵艦船と補給船団攻撃の
      許しを得ることができた。
       昭和20年4月下旬、果たせるかな、第六艦隊(潜水艦隊)の自主的作戦計
      画に基づき編制された「回天」特攻、天武隊を載せた伊号第36・47潜水艦の
      2隻は敵の要衝を結ぶ線上を目指し広い大洋に躍り出た。出撃後、わずか
      数日の4月27日黎明、伊号第36潜水艦は敵の大輸送船団に遭遇、「回天」
      4基を発進、大戦果をあげた。つづいて伊号第47潜水艦も5月1日、大型
      輸送船3隻撃沈、翌2日駆逐艦1隻撃沈、1隻撃破の戦果をあげ、伊号第
      36・47の両潜水艦ともに無事帰投した。
       この戦績に、連合艦隊司令部は第六艦隊の主張を認めざるを得なかった、
      天武隊の成功は、潜水艦の洋上使用を決定的なものとし、従来の指揮下か
      ら離れ、潜水艦隊独自の使用法に基づき可動兵力全てを西太平洋に放ち、
      広い太平洋で作戦できることになった。
       遅いかな、日本潜水艦の使用法が常道に向ったのは昭和20年4月も末に
      なってからである。その結果は目覚しいものであった、それから三ヶ月、
      終戦までに挙げた戦果は、油槽船又は輸送船15隻、巡洋艦2隻、駆逐艦5
      隻、水上機母艦1隻、艦種不明6隻、計29隻撃沈、2隻大破、というもの
      であり、特に、最後の一ヶ月に於いては、作戦可能な潜水艦9隻という状
      況のなか、6隻で編制した「回天」特攻多聞隊は獅子奮迅の活躍をし、敵艦
      十数隻撃沈破する偉勲を立てながら、わが潜水艦は一隻とも失わぬという
      日本海軍潜水艦部隊が「有終の美」を飾った記憶すべき時期であった。又、
      伊号第58潜水艦が、広島、長崎に投下した原爆を運搬した米重巡インディ
      アナポリスを撃沈し、米海軍部内に深刻な衝撃を与えたことは特筆すべき
      ことである。
       昭和20年5月以降、本営発表のニュースは、連日のように潜水艦による
      戦果を報道していた、しかしこの時期、日本の大都市はB29の爆撃にさら
      され、市民は国家総動員法で駆りだされ、「戦果」などに関心を持つ余裕を、
      最早失っていた、「回天」特攻隊の挙げた戦果も、窮状にあった国民の記憶
      の中に残される事なく、時が経つに連れ殆どの人に注意も払われず、その
      まま忘れ去られたのである。


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   (四)回天特攻天武、多聞隊

       昭和20年4月末、潜水艦隊の強い要望に、連合艦隊司令部は2隻の潜水
      艦を試験的に、洋上で自由に作戦することを許した。その第一陣「回天」
      特攻天武隊は予期に反せず見事な戦果をあげ無事帰還した。この事は、以
      後の行動を潜水艦隊に一任する事となり、最後の回天特攻多聞隊まで続い
      た。その奮闘振りを、当時の艦長が綴った記録の中から、幾つかをひも解
      いていこう。
      @ 「回天」特攻天武隊
       昭和20年4月20日、伊号第47潜水艦、23日に伊号第36潜水艦と相次いで
      2隻の潜水艦が、各々6基の「回天」を搭載し光基地を出撃した。この2
      艦はともに連合艦隊司令部から解き放され、自由に洋上で行動できる事に
      なった「回天特攻」天武隊である。
       3日遅れで出撃した伊36潜は、サイパンと沖縄を結ぶ敵の交通路を目ざ
      し進撃、早くも4月27日黎明、沖縄に向う大船団と遭遇した。菅昌艦長は
      直ちに「魚雷戦、回天戦用意」を下令、七千メートルまで接近、護衛され
      た船団にこれ以上近づくのは危険と判断、魚雷発射と続いて「回天」4基を
      発進。後、海中に身を潜ませること数分、魚雷到達秒時を計り潜望鏡深度
      に浮上、素早く洋上を注視、すると物凄い水柱と火焔が遠望、大音響がつ
      づいて起こった、その爆発振動は艦を震わせ戦果の大きさを物語っていた。
      この戦闘で、八木悌二中尉 阿部英雄二曹 松田光雄二曹 海老原清三郎
      二曹の回天搭乗員4名が、大型輸送船撃沈の戦果を挙げ散華して逝った。

       伊36潜の寮艦伊47潜は、前年の7月に竣工したばかりの新鋭艦で、艦長
      折田少佐は、既に3回の出撃を無事帰還させた熟練の猛者である。回天搭
      乗員は前回の多々良隊で出撃、対潜機やしけ続きに見舞われ損傷、好機に
      恵まれず、発進できなかった時の面々であった。
       伊47潜は前回の戦訓から、魚雷、回天戦を即、戦えるよう豊後水道抜け
      る前に万全を期し、ウルシー環礁と沖縄を結ぶ線上に進出した。光基地を
      出撃してから十日目の5月1日夜、「敵発見、影多数」電探員の声が飛ぶ
      潜望鏡から見る洋上は時化模様で真っ暗闇だ、回天の特眼鏡では測的不能
      と判断した折田艦長は「魚雷戦用意」を発令。「回天を使って下さい」と
      懇願する搭乗員を「これでは無理だ、機会はまだある」となだめ潜望鏡に
      目をやる艦長は「魚雷を射つ、静かに持ってゆけ〜」「これ 輸送船距離
      4000」「発射管数4、魚雷深度3、発射始め」と矢継ぎ早に下令。すこし
      間を置いて「用意、テーッ」4つの発射音、艦内に静寂がはしる、到達秒
      時を計る水雷長、3分経過、潜望鏡に火柱が映った、一本、二本、二発命
      中、続いて右側で別の火柱が上がった。2隻に3発命中、一隻は沈没確実
      と判断、戦場を離脱した。
       その余韻が残る、明て2日0090(午前9時)すぎ、聴音室より「音源補足」
      つづいて「音源多数、輸送船団らしい」との報告、艦長は「回天戦用意」
      と「搭乗員乗艇」を下令。搭乗員は各艇に急いで向う、「頑張って下さい」
      「お世話になりました」と別れの挨拶を交わした搭乗員は、交通筒を潜り
      回天の下部ハッチを開き中に乗り込んだ。艦長より一、二号艇「発進用意」
      と敵目標の情報が伝えられ、最後に「しっかり頼むぞ」との艦長の声に、
      「有難うございます」と返礼を残し、接続が断たれた。やがて、柿崎中尉
      の一号艇と三号艇山口一曹の艇が発進、前後して2回の爆発音は2隻の敵
      艦船に命中したことを伝えた。
       「やった」と喜ぶ間もなく「艦二(フタ)、スクリュー音近づく」「駆逐艦
      らしい」聴音員の声、「二号艇発進用意」折田艦長は古川艇に下令する、
      「二号艇発進用意よし」の返答に「目標敵駆逐艦、しっかりやってくれ」
      「二号艇発進」を命じた。固定索の外れる音に、古川艇は快調な熱走音を
      残し敵艦めがけ突進していく、聴音室で3つの音源を捉えていた、音源は
      入り乱れながら、遠ざかり又近づいてくる。回天が逃げ回る駆逐艦を全力
      で追いかけている様子が聴音室で聴き取れた、数分おいて、二つの音源が
      重なった、突入!間をいれず爆発音と衝撃波は艦を揺さぶった。「命中」
      やがて、聴音室より「艦一(ひと)、スクリュー音遠のく」一隻の駆逐艦は
      遁走していった。
       さらに、伊47潜は沖縄とグァムとを結ぶ敵の補給路を狙って進撃、6日
      朝、電探に反応あり、すぐさま潜行し潜望鏡で視認。敵巡洋艦だ、回天戦
      と魚雷戦の併用を発令、回天5号前田艇を発進、回天突入と同時の爆発音
      に、敵艦の轟沈を確信。
       この出撃で回天搭乗員、柿崎実中尉 前田肇中尉 古川七郎上曹 山口
      重雄一曹の4名が郷里を偲び肉親を思い、敵艦に突入散華して逝った。
       天武隊の戦功は、大本営より臨時ニュースで発表された。「我が潜水艦
      隊の2隻は、太平洋上で作戦行動中、敵巡洋艦1隻、駆逐艦2隻、大型輸
      送船5隻撃沈、ほか3隻を撃破せり」と言うものであった。


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      A 多聞隊、伊号第58潜水艦

       伊号第58潜水艦が、米重巡インディアナポリスを撃沈していた事実を、
      戦後の調査で知った米海軍は、被害が大であったとして、昭和20年12月、
      重巡インディアナポリスの艦長マクベイ大佐を軍法会議にかけ、伊58潜の
      艦長高橋少佐をも証言台に立たせた。結果は、高橋大佐の「米重巡は対潜
      行動をとってなかった」との証言により、マクベイ大佐は職務を怠ったと
      され、懲罰を受けることになったが、しかし、この裁判の真意は別なとこ
      にあった。
       米海軍には大きな疑問があったのだ、もしかして伊58潜が、情報を傍受
      し、インディアナポリスの行動を、事前に知ってたのではないかと、機密
      の漏洩は、情報部にとって重大なことであった。調査委員の尋問は執拗に
      続けられたがが、高橋艦長の詳細な証言は、米海軍を納得させるには十分
      であり、艦長はそれ以上の責めを負わされる事はなかった。
       この事は、広島と長崎に投下された原子爆弾を運搬した、米重巡を沈め
      た潜水艦として、戦後、消沈した日本国民の溜飲を下げる意味において、
      一躍、人の知れるとこになった。
       伊号第58潜水艦は、昭和19年9月に乙型29隻の最終艦として竣工。戦訓
      により対水上用22号電探を装備、最初から回天搭載設備が設けられた新鋭
      艦である。昭和20年7月18日、「特攻」多聞隊の回天6基を搭載、瀬戸内海
      に面した平生基地(山口県)を出撃した。艦長高橋以行少佐は、豊後水道を
      抜けると会敵の公算高い、敵の洋上補給線上を目ざし南下した。
       出撃して10日め、電探に感度あり、やがて大型タンカーと駆逐艦と判明
      2基の回天を発進させたが、スコールに妨げられ、爆発音を聞いたのみで
      目視できなかった。(後日、駆逐艦1隻撃沈と判明)
       次いで伊58潜は、パラオ、グァム、レイテ、沖縄を結ぶ海域で、艦船の
      往来が最も多い敵の補給線を叩こうと、東カロリン諸島方面に向かい、課
      電(充電)しながら洋上走航で進んだ。艦内は、まるで蒸し風呂のように暑
      い、乗組員はよくそれに耐えていた。そしてこの日、昭和20年7月29日、
      日没とともに潜行に移った。敵のレーダーによる先制攻撃を避けるためで
      ある、我が方の電探性能は最大探知距離一万二千メートルにすぎず、光学
      兵器と見張り員の眼力を自負した夜戦も、進歩した米軍の電波兵器のまえ
      に完全に封じられていた。
       午後11時頃、月の昇る時に合わせ、潜望鏡深度で洋上を視察、傾く月は
      海面をキラキラ光らせ、攻撃に十分な明るさを照らしていた、更に電探は
      敵機を探る、反応なし。「浮上する、メインタンク・ブロ〜」艦長の令に
      静かに浮きでた艦橋に航海長が駆け昇る、続いて信号長、見張り員が上が
      り、すばやく97式12cm双眼望遠鏡にとび付く。洋上航行することしばし、
      と、見張り員が突然「左前方に何か見える」と叫んだ、航海長がそっちに
      目をやる、月明りの水平線に、浮彫りされた艦影らしい黒点一つ、艦長は
      直ちに「潜行!」を下令、再び潜行に移った。
       潜行しながらも、艦長高橋少佐は黒点をしっかりとらえている、黒点は
      次第にハッキリし艦影を現してきた。「敵艦だ!」さすが日本海軍の見張
      り員の目は優秀だ、薄暗い月明りの中、一万メートル以上の距離で、敵の
      レーダーより先に発見していた。「魚雷戦用意」に続き「回天用意」も発令
      された。敵艦はまったく気づかず、対潜警戒のジグザグ航行もしないで、
      こちらに向かい真っ直ぐ進んでくる、周りに護衛の艦艇もいない。
       そのうち艦橋が確認できる距離までになった、かなりの大型艦だ。高橋
      艦長は「回天」を万一を考え準備させたが、この明るさでは、性能の低い特
      眼鏡(潜望鏡)を備えた回天では、命中を望めない、通常魚雷戦で敵を射止
      めてやろうと決心していた。
       約四千メートル位の地点で、敵は進路を少し変えた、真上を突っ切られ
      る恐れがなくなった、むしろ好射点に進んでくる。艦長は潜望鏡で標準を
      合わせながら「魚雷発射管6 発射始め」次いで目標の敵速、方位角、距離
      を測定、諸元を調定させる。艦橋に狙いをつけ、距離千五百メートルまで
      接近する、ときは、7月29日1326(午後11時26分)「よぅ〜い テッー」艦長
      の号令一下、一斉射6本の魚雷は、2秒間隔で発射され、扇型に開きなが
      ら敵艦めがけ突進していく。
       艦内の静寂を高橋艦長の声が破った「命中、命中だっ」、潜望鏡を覗く
      艦長の眼に、命中の様子が手に採るように映った。一発目は、一番砲塔の
      真下から大きな水柱を上げた、等間隔を置いて二発、三発目が命中、それ
      ぞれ二番砲塔、艦橋の近くから水柱と真っ赤な火炎を吹き上げた。その、
      光景を第二潜望鏡(航海、夜間用)を上げ、司令塔配置の乗員に覗かせた。
       それから少し経って、三発の爆発音が響いてきた。次発魚雷装填のため
      一まず潜行、潜望鏡を上げて視たとき、敵艦の姿は既に洋上にはなかった。
      高橋艦長は撃沈を確信、艦隊司令部宛打電した。
      「ワレ伊58潜 ヤップ島北西方 北緯12度02分、東経 134度48分ニオイテ
      アイダホ型戦艦ヲ撃沈ス。(事実はインディアナポリス)」


                               日本潜水艦史 完
      資料提供下さった方々に感謝するとともに、
            今大戦で散華された英霊に謹んで哀悼の意を表します。

                                  目次に戻る