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日本潜水艦史

第三章 潜水艦の戦い


   5 「回天」特攻作戦

    特攻兵器

    @「特攻」への道

     ここで言う“特攻”とは前述した、特殊潜航艇(甲標的)による
   “特別攻撃隊”とは意を異にする特別攻撃隊である。前者は帰還後の
    収容には万全を期しての出撃であったが、後者で言う特攻隊とは、
    はじめから生還を期せずしての出撃であり、十死零生の作戦である。
     開戦より続く、数ヵ月の破竹の進撃は日本陸海軍首脳部を有頂天
    にし、戦力をも計らない戦線の拡大は後方からの、補給路を断たれ
    脆弱さを暴露しだした。ソロモン消耗戦で制空権を失った日本海軍
    は、南洋離島への補給を潜水艦に託た。それは潜水艦の戦力不足に
    拍車をかけ、さらに航空兵力、水上艦艇も一大消耗戦の泥沼に引き
    込まれていった。
     昭和18年中頃、悪化の道をたどる戦況を打開するため、前線で戦
    う若い海軍士官の間では、必殺必中の兵器、所謂、特攻兵器の構想
    が描き出され、海軍省に具申するものが出た。戦局の悪化に伴い、
    このような気運は上昇の一途をたどり、若い指揮官らの血書嘆願を
    もって事は運ばれて行ったが、しかし、この時期では航空機による
    特攻同様、下部からの提案は拒否されていた。
     これと同時頃、甲標的の乗員であった若い海軍士官黒木博司中尉
    と仁科関夫少尉の両名は、18年秋、P基地で特殊潜航艇の艇長とし
    て訓練を続けていたが、もはや特殊潜航艇では、戦局打開の決定的
    兵器としては、能力不足であり、必死必殺の非常手段によらなけれ
    ばとうてい日本を救うことはできぬと考えはじめた。彼らは魚雷を
    自ら操縦し敵艦に体当たりする構想を発案、軍令部に血書嘆願がだ
    された。だが、これもまた、軍令部第一部第一課の藤森康男少佐を
    通し、事の次第は永野軍令部総長に報告されたが、永野総長は即時
    に「それはいかんな」と明言して、ただちに却下したと言う。
     しかし、この頃、前線での戦いは一方的にに悪化の一路をたどり
    昭和19年2月初旬には、ギルバート群島につづきマーシャル群島も
    陥落し、その要衝クェゼリン島やメジュロ環礁を前進基地として使
    いはじめた敵機動部隊は、南方における日本軍の根拠地トラック島、
    サイパンを攻撃範囲に収めた。 大本営では、ただちに「竜巻作戦」
    を発動、この機動部隊を奇襲せんとしたが、特四内火艇をもってす
    る本作戦は兵器の劣弱なため結局未成に終わってしまった。これら
    一連の作戦を見守っていた黒木、仁科の両人は、再度上京し軍令部
    に対し、当作戦にこそ嘆願中の兵器が有効である旨を説いた意見書
    を持参し熱願した。激化する戦況の中、特攻兵器の採用を上申し続
    ける青年士官達、この苦渋の選択に困惑する海軍上層部に決定的な
    事態が起きた。


     昭和19年2月17日、スプルアンス提督が指揮する大機動部隊は、
     568機を搭載する9隻の空母群をもってトラック島に襲いかかった
    のである。
     17日早朝から18日にかけて、二日間にわたる大空襲は徹底したも
    ので、飛行機 325機を失い、巡洋艦那珂、香取、駆逐艦舞風、文月
    追風、太刀風、駆潜艇24号、29号、魚雷艇10号沈没、時雨、松風、
    秋津州、明石、宗谷、波勝、駆潜艇20号、伊10号、呂42潜水艦など
    が損傷、そのほか在泊する輸送船、油槽船などの船舶約20万トンを
    一挙に失うと同時に、燃料、糧秣その他多量の軍需資材の焼失と、
    陸上施設にも大被害を蒙り、海軍最大の根拠地であるトラック島は
    完膚なきまでの壊滅的打撃を受けた。
     19年2月に入り、マーシャル諸島の失陥、トラック大空襲と23日
    マリアナ諸島襲撃など、一連の大事によって衝撃を受けた海軍中央
    は、19年2月26日、遂に黒木・仁科両名の上申する兵器「人間魚雷」
    の試作を呉海軍工廠の魚雷実験部に下命した。
     19年4月、艦政本部及び航空本部の技術陣に軍司令部は非常手段
    による兵器の開発を要望してきた「これだけあれば必ず頽勢を挽回
    できるが、もしこれがなければ必ず敗ける」と称し、9種類からな
    る特殊な攻撃艇と兵器の「緊急実験」が順次に提案された。@から
    Hと仮称されたが、その中完成したのはCとEだけで、試作の上、
    一応完成はしたが実用には供し得なかったのがHである。これらに
    は後日、Cは震洋、Eは開発中“丸六金物”と呼ばれた「回天」で
    あり、Hは震海と命名された。
     その他は完成に至らなかったが何れも特攻又は特攻に準ずるもの
    であり、作戦の大要を握る軍令部が、海軍省に対して提出した、ま
    さに非常事態を背景にしての異例の要望であった。併しこの時点で
    は、全ての兵器に脱出装置が考慮されていた。

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    A特攻兵器の採用
     昭和19年4月、軍令部より特攻兵器の試作が各部所に下令された
    時、すでに黒木、仁科両人の提唱する「人間魚雷」は、魚雷設計の
    権威渡辺清水技術大佐主任の下に、鈴川薄技術大尉、楠厚技手、有
    坂技手らにより呉工廠大入工場の極秘部所で研究、試作が始められ
    ていた。19年3月には、進級して黒木大尉、仁科中尉になった両者
    は、4人の技術者とともに、E、丸六金物と呼称される、特攻兵器
    を、それから約5ヶ月間、昼夜をいとわず設計、試作を重ねた苦心
    の末、7月初旬、漸く、試作兵器3基が完成した。
     これが後日、米海軍を戦慄の渦に陥れた「回天」と名付けられた
    特攻兵器であるが、もっとも、最初は、接敵し進路を固定した時点
    で搭乗員はハッチより艇外洋上に放出され、魚雷のみが敵艦に命中
    することを条件として脱出装置が考慮されていた。
     特攻兵器の生産を決定させたのが、マーシャル失陥によるトラッ
    ク島の大空襲なら、この兵器の使用を決めらせたのは、昭和19年6
    月のサイパン陥落とマリアナ沖海戦の完敗に有ると言えよう。
    「特攻」への道のりは、兵器の完成とともに、作戦及び組織の面に
    おいても、今や上層部からの伝達的型式となり、日を追う事加速的
    に進められて行った。
     昭和19年7月10日頃には、軍令部の要請を受けた海軍省軍務局に
    よる提案で、特攻基地隊としての「第一特別基地隊」が呉鎮守府内
    に編入され、すぐさま、続いて8月30日には、海軍省の人事、及び
    教育、各局長との連名により、横須賀、呉、両鎮守府宛て要員選抜
    及び教育に関する申進が発付された。
     9月13日になると「海軍特攻部」が海軍省内に発足、海軍中央の
    諸機関の部局より、それぞれの要人達が参加し大組織を形成すると
    言った具合に、事は順調に進められていった。この様にして水上及
    び水中特攻が、戦力としても作戦としても、正式に容認された形の
    中で拡大されていった。
     昭和19年8月16日、海軍上層部において、特攻兵器使用に関する
    討議が行われた際「草鹿連合艦隊参謀長は、必死の戦いであるので
    成果の上がる兵器を持たせてやりたい」と述べるとともに、「十分
    の一の生還方途を考えてもらいたい」との希望を述べていた。また
    井上成美海軍次官は、捨て身戦法の有益なことを認めつつも「脱出
    装置」の準備について発言するところがあったと言う。
     まだこの段階では、これまでの作戦を通し海軍伝統の、九死一生
    を以て限度とする作戦思想が、海軍中央部の指揮官達の心底に根付
    いていた。いかなる、作戦においても事を起こす場合、十死零生で
    はなく、一割りの生還以て命令とするのが帝国海軍で有った。
     しかし、戦況の悪化はそれを許さなかった。昭和19年9月17日、
    サイパン陥落後、次に来るべき戦場、フィリピン防衛戦に発動され
    る「捷一号作戦」をめぐって、軍令部では、関係幕僚が集まり戦備
    の「緩急順序」に付いて討議が交わされた。この時「特攻兵力」が
    既に「航空兵力」「航空基地防空」に次いで戦備の第三番目に上げ
    られていた。
     19年7月に試作完了していた、人間魚雷「丸六金物」(後の回天)
    には搭乗員の脱出装置は外されていた。もとより十死零生の兵器は
    許されなかった。しかし、10月下旬「捷一号作戦」の発動にともな
    い、航空機により体当たり攻撃をする、神風特別攻撃隊が志願許可
    されるに及んで、「人間魚雷」もまた同じく、特攻作戦への取り扱
    いを受けるようになった。


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    B「回天」と酸素魚雷

     昭和19年7月「丸六金物」の呼称で完成された「人間魚雷」は窮地
    に追い込まれ、新しく発案されたものでなく、既に日米開戦の前、
    昭和8年頃に、岸本大佐の着想により研究されていた。日米関係が
    一触即発の時期、もし日米艦隊決戦が起きれば、劣勢比率を課せら
    れいる日本艦隊は、不利な戦いを強いられる事になる。この打開策
    が「魚雷を人間が操縦して必中を期する」という「丸六金物」謂わ
    ば特攻兵器の考えその物であった。
     しかし海軍はこれを認めず、更に研究を進めた結果「洋上決戦に
    先立ち母艦から発進、小型の隠密性を活かし可能なだけ敵艦に接近、
    敵主力艦を奇襲攻撃、その後は母艦に収容」という、小型潜航艇の
    形で認可された。これが「甲標的」特殊潜航艇となって完成したの
    である。
     この「甲標的」発想の要因をなした人間魚雷そのものを兵器とし
    て実現させたのが、大浦崎第一特別基地隊(P基地隊)で甲標的の
    修練に励む青年将校、黒木博司大尉と仁科関夫中尉であった。
     昭和18年暮、ソロモン消耗戦で敗退の一途をたどる、友軍を憂う
    彼らの脳裏には、戦勢を挽回する新兵器を模索していた。今、自分
    らが訓練している「甲標的」では急激に進歩する近代戦に到底対応
    する事が出来ない、これに代わる、高速で且つ強力な兵器を必要と
    するのだ。
     黒木中尉と仁科少尉(階級当時)は、各鎮守府の兵器庫に累々と積
    まれる「九三式魚雷」に着目した。二人の構想は、この魚雷を改造
    し、自由に操縦出来る一人乗りの「人間魚雷」を造り、必死必中の
    攻撃をせんとするものであった。
     再三の上申のすえに、19年2月漸く試作が下令され、7月完成を
    見た(前項で記述の通り)。それは、水中特攻兵器E金物或は、関係
    者の中では単に「筒」とも呼ばれ、日本の誇る「酸素魚雷」をその
    まま動力とし、頭部に 1.5トンの炸薬をそうちゃく、乗員はそれを
    操縦する必殺兵器でる。実験の結果「酸素魚雷」の特性を偉観なく
    発揮、航跡を残さず高速で走航し、頭部炸薬 1.5トンの爆発力は、
    中型艦なら一発で轟沈せしめる驚異的なものであった。
     敵に知られず、自由に操り敵艦に命中する此の兵器こそ、甲標的
    とは比較にもならぬ強力なもので、まさに、救国の兵器とした海軍
    では、これを「回天」と命名した。
     それでは、此の「回天」考案のみな元になった酸素魚雷とは如何
    なるものであったのか、回天を知る前に、日本海軍極秘兵器の酸素
    魚雷に付いて知っておかなければならない。
     そもそも、魚雷の推進力となるのは、空気中の酸素が、動力機関
    の燃料を燃焼させ、その出力で推進機を駆動して走行するのだが、
    空気中に含まれる酸素の量は4分の1弱だ、残りは気泡になり海中
    に放出され、これが青白い尾を引く航跡となってしまう。それでは
    空気の代わりに100%の純酸素を用いるなら燃焼後の酸素は炭酸ガス
    となり、海中に融解してしまい航跡を残さない、しかも空気室一杯
    に詰め込まれた純酸素は、当然、航続距離も数倍に延伸し、燃焼時
    の瞬発力を大きくさせ、高速を発揮させる。
     良い所尽くしである。ところが、そうは簡単に行かないのだ、純
    度の高い酸素は強力な爆発物で、火気は無論のこと油気に触れただ
    けでも大爆発を起こす厄介者である。それ故、海軍列国では35%の
    濃度を以て限界としていたが、唯、魚雷の先進国、英国だけは50%
    での使用に成功した。しかし、実用前に爆発事故を起こし、それ以
    後は危険兵器とし製造を断念してしまった。
     唯一、日本海軍のみが大八木静男大尉を中心に、酸素魚雷の完成
    に向け邁進していた。昭和7年、不眠不休の努力の末、50%の酸素
    で走行に成功した、速力40ノット、射程2万メートル、これはもう
    世界の一流品であった。だが、劣勢な主力艦を決戦前に、水雷戦を
    以て有利に導こうとする、水雷用兵の権威、岸本鹿子治大佐は満足
    しなかった。
     更に、魚雷設計の天才、朝熊利英中佐が加わり、岸本、大八木の
    3名による、苦心に苦心を重ねること3年、遂に完全な酸素魚雷を
    完成させた。実験の結果、最高速力は50ノット、36ノットなら4万
    メートルを突っ走しると言う驚異的魚雷であった。
     昭和11年、高速が故に起きる障害などに改修を加え、完全なもの
    となった魚雷は海軍正式兵器として採用「九三式酸素魚雷」と命名
    された。


       念のため、その性能を米英大海軍の代表的魚雷に比較してみると
     国 名  直径 cm  速力 nk  射程 m  爆薬 kg

     日本   61    36   40,000  500
     米国   53    32    8,000  300
     英国   53    30   10,000  320
    「九三式酸素魚雷」の逸脱した優秀さは一目瞭然である。


      酸素魚雷の詳細についてはHP「日本国と日本海軍の栄光」
      連合艦隊の激闘・碧き殺人者 をご覧下されば幸いです。

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    C「回天」と創始の若人達

     太平洋戦争中、日本海軍は世界に誇れるものを数多く造り出し
    ていた。だが、生産力の貧困はそれを戦力として活かせぬまま、
    多くの物を漬えさせてしまった。又その中には、自我自讃の物も
    あっただろう、しかし、世界一の優秀品と折り紙を付けて、自他
    共にその座を譲らなかったのが、日本海軍極秘兵器「九三式魚雷」
    いわゆる「61センチ九三式酸素魚雷」である。
     それを証する海戦は幾つも存った。昭和17年2月26日のスラバ
    ヤ沖海戦では、砲弾の届かない遠距離から射ち出された酸素魚雷
    に、悉く打ちのめされ、あわてた敵艦は「機雷に注意せよ」と交信
    しながら逃げ回った。しかし同じ海面を疾走する日本艦隊を遠望
    なぜか納得出来ず、潜水艦にやられたと思っていた。
     (詳しくはスラバヤ・バタビア沖 海戦>をクリック)
     更に、ルンガ沖夜戦も、此の酸素魚雷の勝利と言っても過言では
    ないだろう。昭和17年11月30日、輸送任務中の第2水雷戦隊に、米
    艦隊は有力な勢力を以て待ち伏せ、攻撃をかけてきた、これに対し、
    田中頼三率いる水雷戦隊は、不利な体勢にも憶せず、直ちに反撃に
    転じ、巡洋艦1隻撃沈、3隻を大破、日本側は駆逐艦1隻を失った
    だけと言う大戦果挙げている。
     (詳しくは ルンガ沖夜戦をクリック)
     これらの両海戦とも、1万〜2万メートルの遠距離から発射され
    た魚雷は、狙い違わず見事敵艦に命中していた。当時、米、英国の
    魚雷は走行距離8千〜1万メートルと公表されているが、有効射程
    距離は精々3千〜4千メートルである。“まさか”の遠距離から、
    航跡を見せずに突っ込んでくる酸素魚雷に沈められた連合軍が、こ
    の実態を知ったのは終戦後のことであった。日本軍の極秘文が、連
    合軍側に多く筒抜けであった中で、酸素魚雷の秘密は良く守られて
    いた。
     戦後、進駐してきた米、英の技術将校は、競って酸素魚雷の調査
    を始め、全貌を把握すると共に実射実験を観て、航跡を残さず高速
    で駛走、的確に命中する精度の高さに、驚嘆の声を発すると同時に
   「我々の海軍は、魚雷に関する限り、日本海軍に完全に負けた、兜を
    脱ぐ」との賞讚の辞であった。
     魚雷の先進国、英国をも「敵わなかった」と言わせた驚異の兵器
    酸素魚雷を以ての戦いが続くなら、少なくとも海軍は、敗退の道を
    たどる事は無かったであろう。しかし、日々進歩する航空機や電探
    など新兵器の登場は、海戦方式を一変させ、日本海軍伝統の戦術を
    次々と主役の座から引き摺り下ろしてしまった。
     出番を奪われ、兵器庫に眠る酸素魚雷を、戦局挽回の兵器として
    再度、苦闘する戦場に引き戻そうとする考えは、人間魚雷としての
    構想となって現れた。これを救国兵器「回天」として具現せしめた
    黒木、仁科両海軍士官の尽力は大なる処があった、が、しかし時を
    同じくして、此の構想を共有する憂国の若人は他にもいた。
     その一人、竹間忠三大尉は昭和18年始め、潜水艦に乗りソロモン
    海域で戦闘中、繰り出される新兵器の前に、戦勢を挽回できるのは
    魚雷による肉弾攻撃こそ最良の策として人間魚雷の構想を、潜水艦
    担当参謀に具申した。又、昭和18年中頃、インド洋で通商破壊作戦
    に従事する伊号第 165潜水艦の航海長近江誠中尉と水雷長入沢三輝
    大尉は、進歩した対潜護衛艦艇の警戒網をかい潜り、戦果を挙げる
    には、破壊力が大きく40ノットの高速で突入出来る水中特攻兵器を
    於いて良策無しとして、人間魚雷的発想を血書し連合艦隊司令部に
    送付している。だが、まだこの時期には生還零の特攻兵器を作戦に
    使用することなど、海軍では許可出来るものでなかった。
     併し、逼迫する戦況に、特攻兵器の必要性を切望する若人が増え
    ゆくうち、前項で述べた如くサイパン陥落に至りて海軍は苦慮の末、
    特攻に踏み切ったのである。
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