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日本潜水艦史

第二章 潜水艦の建造

  3 無条約時代の建造

   開戦後の設計建造

   D「潜高小」型潜水艦(波201型)

    昭和19年末、戦況いよいよ切迫し本土決戦をもって、抗戦しようと
   する海軍は、当時、決戦用兵器として「蛟龍」の量産を決定していた
   が、之れでは航続力が小さく局地防御に止まってしまい、より行動力
   が大きく、水中性能の優れた小型潜水艦の整備を軍令部は切望した。
    通称、潜高小型(仮称艦名、第4911号艦型)波 201型潜水艦は、昭和
   19年末に急遽設計され、約一ヶ月の短期間で決定し、翌20年初頭には
   量産体勢に入り、4ヶ所の造船所で特攻兵器に準ずる扱いで建造され
   る事になった。最初750トンと500トン案が検討されたが、量産を考慮
   して最小の 320トンとし、敏速に設計を終了させ、一番艦を昭和20年
   3月に起工、同年5月に完成させた。
    急速建造のため全溶接ブロック構造にし、あらゆる点で簡易化を図
   り建造を容易にした。主機は、潜輸小型と同様、中速 400型ディーゼ
   ル1基で一軸艦とし、速力水上10.5ノット、水中13ノット、航続距離
   は10ノットにて約 3,000浬であった。兵装は前部に発射管2門、魚雷
   4本を搭載、7.7mm単装機銃1基を艦橋上部に装備した。
    艦型は水中操縦性を重視、特攻兵器「海龍」の場合と同様に艦首に
   設けられた潜舵を船体中央部に移し、従来の潜水艦とは異なる形状に
   なった。
    完成公試の結果、水中速力13.9ノットを発揮し水上速力も13ノット
   に達した。資材が窮屈になってきた時期に急造したため、大規模な簡
   易化が払われたが、急速潜後秒時は極めて短く、操縦性は非常に良好
   であり充分な性能を保持し、乗員にも好評であった。
    79隻の建造を予定していたが、終戦までに10隻が完成、37隻が建造
   中で、戦時計画艦として最も短期間に戦力化された。後少し戦争が続
   いていたならば、さらに相当数が竣工し、恐るべき威力を発揮し得る
   艦であったであろう。


   「潜高小」型  (波201型)
 波号第201 昭和20年5月31日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠建造
 波号弟202 昭和20年5月31日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠建造
 波号弟203 昭和20年6月26日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠建造
 波号弟204 昭和20年6月25日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠建造
 波号弟205 昭和20年7月3日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠建造
 波号弟207 昭和20年8月14日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠建造
 波号弟208 昭和20年8月4日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠建造
 波号弟209 昭和20年8月4日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠建造
 波号弟210 昭和20年8月11日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠建造
 波号弟216 昭和20年8月16日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠建造
   波号第206.212〜215号までは工程75%〜95%、217〜247号までが、それ
   ぞれ工程90〜5%の状態で船台上にあった。尚、波号211号は工程40%
   で終戦を迎えたが、GHQの指令により戦後も工事続行、昭和21年4月
   進水、同年5月6日紀伊水道で海没処分。


            「潜高小」型潜水艦要目表

       要目  潜高小 型(波201型)の新造時を示す。
    基準排水量  水上320トン、      水中 440トン。
    全長     53.00m、最大幅 4.00m、吃水 3.44m。
    機関     中速400型ディーゼル機関1基1軸。
      出力     水上 400馬力、     水中 1,250馬力。
    速力     水上 11.8ノット、    水中 13.90ノット。
    航続距離   水上 10ノットで3,000浬、水中2ノットで100浬
    燃料塔載量  重油 ...t。
    安全潜航深度 100m。         乗員 26名。
    兵装     7.7mm単装機銃1基、
           95式無気泡式53cm魚雷発射管(艦首)4門
                   魚雷搭載数 4本。
    射出機    なし 搭載機 なし


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      甲標的と特攻兵器

     @「甲標的」特殊潜航艇

     「甲標的」一般には特殊潜航艇の呼び名の方が良く知れているが、
     これは、真珠湾攻撃に参戦したことを国民に知らせる、大本営発
     表に「特殊潜航艇をもって編成せる我が特別攻撃隊は」と用いられ
     たのが始まりであり、海軍としての正式名称ではない。
      試作段階にあった「甲標的」は、機密保持のため「対潜爆撃標的」
    「A標的」「TB模型」と呼ばれ、又関係者の間では単に「的」と
     呼ばれていた。だが、試作改良型2隻建造以後その名称は一定し
     て「甲標的」と呼ばれるようになったのである。
      昭和7年頃から、日本軍の大陸進出に対し海外での対日感情は
     悪化し、特に我が国に対する米国の経済制裁は厳しく、国内の交
     戦派の運動を加え、日米間では風雲急を告げる状態だった。
      この日米開戦を考えるとき、ワシントン並びにロンドン軍縮条
     約による対米比率の劣勢を補い、又やがて来る無条約時代での建
     艦競争に対し生産力で劣る日本海軍が有利に事を進めるために、
     我が海軍独特の着想と技術により生まれたのが、世界無比の巨艦
     「大和」であり、又一方では、極めて精密且つ高性能の小型潜水艇
     である「甲標的」であった。
      昭和8年、日米関係が一触即発のこの時期「魚雷を人間が操縦
     して必中を期する」という考えが海軍部内外で起こり、具体化す
     る研究が行われるに至った。洋上決戦に先立って母艦から発進し
     て敵主力艦を奇襲攻撃しようという発想のもと、着想者岸本大佐
     以下、朝熊(造兵、水雷)中佐、名和(造兵、電池)中佐、山田(機関
     電動機)中佐らの協力で計画が進められ、搭乗員の収容可能を条
     件に、最高機密(軍機)として、特定の技術者間で急速設計に着手
     した。
      昭和9年早々設計を終わり、呉工廠で試作された二隻の「的」
     と呼ばれる試作艇は夏には早くも宿毛湾外での外洋実験に出た。
     試作艇は全長23.9m、直径1.85m、主電動機は重量1.50トン、出
     力 600馬力、速力水中24ノット、全力で50分航走後、微速で約8
     時間航走し得る。魚雷式船体で推進器は二個の反転式、魚雷発射
     管2門、魚雷二本搭載。搭乗員は2名、自動深度保持装置、電池
     ガス吸収法はバラジューム触媒法、小型転輪羅針儀等の特殊装置
     が設けられた。始めは司令塔のない魚雷型だったが、実験の結果
     小さい指令塔を設けて満足な成績を得るに至った。
      昭和13年、呉工廠で改良型2隻の建造が引き続き行われ、以後
     の改良艇は本格的司令塔を設けて潜望鏡を高めると共に、乗員の
     出入りの便利さを図ったが、水中抵抗が増し結果、速力は19ノッ
     トに低下した。14年には本格的な実験訓練を開始し、更に昭和15
     年には呉工廠で量産に入り、昭和16年の開戦までに20隻が完成さ
     れ、又16年春には本来の目的である母艦からの発進が「千代田」で
     行われ成功を収めていた。
      「甲標的」の初陣は、洋上襲撃訓練の傍ら本艇のあらゆる使用法
     を検討していた故岩佐直治中佐による、泊地襲撃にも使用可能で
     であるとの進言が上司を経てこれが取り入れられ真珠湾攻撃への
     参戦が実現されるに至った。続いて、昭和17年5月末に英軍基地
     のデイエゴ・スワレズ港及びシドニー港に対する泊地攻撃が敢行
     された。
      これらの攻撃の戦訓により幾多の改良を加えられた甲標的は、
     逐次量産され孤立するキスカ、ソロモン等での局地防御用として
     使用されると、電池の自己充電装置がないのは致命的欠点となり
     小型発電機を装備した。従来の艇を甲型と称し、この充電装置を
     装備した第一艇を乙型と呼び、乙型の量産型を丙型と称した。そ
     の後丙型はセブ島を基地として戦争末期に敵輸送船団を攻撃し相
     当の戦果を挙げた。
      昭和18年末には、著しく性能が改善された丙型であったが更に
     局地防御用として根本的に改良し、自己充電装置を格段に強化し
     た丁型が研究され、第1艇は20年初頭実験を了した。本艇に至り
     技術主務部は水雷より造船に移行し、本土決戦に備え量産に適す
     るようにブロック接手を改正し、難易な二重反転推進器及び関連
     装置も廃止した簡易方式をとった。その成績は頗る優秀で、用兵
     者の満足する処であり、早速に特攻兵器「蛟龍」と命名され、終戦
     までに甲、丙型約75隻、蛟龍110隻の完成を見た。
      因みに改型になるに従い乗員も丙型で3名、丁型では5名と増
     えていった。
      対米に比し経済力で劣る日本海軍が、開戦を予期し採った造艦
     整備策が皮肉にも、現実に起きた日米戦争で開戦期には大和型の
     建造に海軍の多大の労力を費やし、戦争末期には甲標的の建造に
     全力を向けられた事実を見るとき、大艦巨砲主義は既に去り時代
     は、潜水艦と航空機に入れ替わって居たことを知る。
     (註、甲標的の各型改良及び戦闘記録の詳細は、後日戦闘編で!)


           「甲標的」各型比較要目表

           甲 型  乙、丙型  丁型(蛟龍)  海 龍 
   全没排水量(t)  46    50    59.3     19.3
   全   長(m)  23.9   24.9   26.25    17.28
   最 大 幅(m)   1.85   1.88   2.04     1.30
   深   さ(m)   1.85   1.88  約2.95     1.30
   内殻 直径(m)   1.85   1.88   2.04     1.03
   安全潜航深度(m)  100    100    100     200
   発射管(cm/数)   45/2   45/2   45/2    45/2又は
   魚 雷 数     2     2     2     炸薬600kg
   速力 水上(ノット)   -    6.5    8.0     7.5
      水中(ノット)  19.0    19.0   18.5     10.0
   航続距離
     水上(ノット-浬)   -    6-300  8-1,000    5-450
     水中(ノット-浬)  6-80       16-40分航走後
            又19-50分  4-120  更に2.5-125浬  3-36
   馬力 水上(hp)    -    -     150     100
      水中(hp)   600   600     500     100
   主機械(水上用)    -     -      -    デーゼル1
   主発電機       -   40hp-1   150hp-1     -
   乗 員 数      2     3      5     2


                       出版共同社「日本の軍艦」より

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    A 特攻兵器「海竜」

    「特攻兵器」とは、読んで字のごとく特攻隊、即ち特別攻撃隊が
    用いる兵器である。この特攻隊の名称が使われたのは太平洋戦争
    緒戦行われた、真珠湾、シドニー及びジゴスワレス港に対する、
    甲標的による港湾強襲突入が敢行された時で、前者を第一次、後
    者を第二次特別攻撃隊と称したのが始まりである。
     当然、危険度は高いが生還と収容には万全が施されたもので、
    太平洋戦争末期に行われた出撃後生還を期さない特攻とは意を異
    にしたものであった。昭和19年に入り悪化する戦局のなか幾つか
    の特攻兵器が考案されたが全てが生還を前提としたもので、ここ
    で述べる「海竜」は無論、人間魚雷と呼ばれた「回天」でさえ例
    外でなかった。又如何に苦境に瀕した状況でも、生還を期さない
    作戦などは、日本海軍に存在しなかったのだ。
     しかし、レイテ沖海戦で航空機による体当たり攻撃が敢行され
    るに至り、愛国心に燃える若人達は、製作面倒な発射装置や脱出
    装置は取りやめ弾頭ごと直接体当たりする方針に進み、戦争末期
    には「回天」如きに於いては過大な戦果を上げ、米軍に最も恐れ
    られた兵器の出現となった。
     この「特攻兵器」と称される小型潜水艇「海竜」は昭和18年初頭
    工作学校教官浅野卯一郎(機関中佐)により考案された二人乗り
    有翼潜水艇で、着想から実験、製作までを同一人の手で完成させ
    た、艦艇兵器としては類を見ないものである。
     潜水艦はタンクの注排水により浮力を調節、浮沈するが飛行機
    は補助翼の操作により応力を発生させ、機体を上昇、下降する、
    そこで小型潜水艇に翼をつけ飛行機の如く軽快に水中を行動し、
    潜航、浮上を瞬時に出来るよう考案された小型で量産に適し局地
    防備に使用する水中高速艇で、その着想は飛行機に基ずくもので
    あった。
     だが、艦政本部が兵器化に消極的であり、採用迄に多くの時間
    を費やした。しかし水槽での実験等を繰りかえし行い成算がある
    ことが確認され、昭和19年横浜工専(現在の横浜国立大学.工学
    部)の製図室で生徒らの手により線図がひかれた。
     同年4月軍令部より発せられた特攻戦備計画にB(まる三)金物
    の略称で採り入れられ、5月に設計完了、久里浜の工作学校にお
    いてSS金物の名称で試作に着手、8月には試作第一号艇が完成し
    た。
     昭和20年4月、沖縄戦が始まると同時に量産が発令され「海竜」
    の名で本土決戦用兵器として5月28日正式採用、蛟龍の戦力不足を
    補充するため多くの建造所で全力を挙げて急造された。
     二人乗りの小型潜水艇という点では、甲標的と似ているが前者の
    46トンに対し海竜は19.3トンという身軽さであり、量産も容易に行
    われた。水上走航用主機械は入手容易な統制型小型ディーゼル、野
    戦重砲を引く索引車の機関を採用し、複雑な操縦装置は双発爆撃機
    銀河の廃品を流用した。
     海竜は発射管を設けず艇体下部の2本のレールに45cm魚雷を発射
    筒と共に装備し、火薬ロケットでそれを射出する外装離脱方式だっ
    たが、魚雷製造能力の関係で一部の艇は発射筒を廃止し艇首の燃料
    タンク部分に炸薬 600kgを装備した純然たる特攻艇となったが中に
    は発射筒と炸薬の両方を搭載した艇もあったといわれる。
     小型で構造及び機構ともに比較的簡単なため早くも4月末には横
    須賀工廠は工作学校の協力で 110隻が完成し、終戦迄には 224隻が
    完成、約207隻が建造中であった。
     海竜は量産によりその実際性能は当初の期待より次第に低下した
    が、しかし水中翼によって相当の荒天でもセイルが水没せず運動は
    軽快だった。量産に成功した海竜であったが、空襲の激化と艤装品
    調達の遅延から整備が遅れ、実戦に参加する事なく終戦を迎えた。
         
註「海竜」要目標はここをクリック


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   B 人間魚雷「回天」

     昭和19年2月17日、南方最大の海軍基地、トラックが米機動部隊
    の大空襲を受け壊滅的打撃を受けるに至り、軍令部は艦政本部及び
    航空本部の技術陣に対し「之れだけあれば必ず戦局を挽回出来るし
    之れなくしては必ず負ける」という特殊な攻撃艇と兵器九項目を、
    @(まる一)からH(まる九)の仮称で提案された。
     このうちEと呼ばれるのが後に「回天」と命名されるのだが、これ
    より一年先、後退ぎみの戦勢を打破する兵器として人間魚雷の構想
    が黒木博司中尉(回天実験中殉職)、竹間忠三大尉ら青年将校によ
    り司令部に提出されていた。
     人間魚雷は昭和19年2月26日試作が訓令され、呉工廠大入工場の
    極秘区画で秘匿名称E金物として魚雷設計の権威渡辺清水技術大佐
    を主任とし、鈴川薄技術大尉と数人の技手らで3月始め設計試作を
    始めた。
     後に「回天1型」と命名されたE金物とは、動力に93式改3型魚雷
    を殆どそのまま使用、之れに操縦装置となる外筒と特眼鏡を施し、
    頭部に1,500kg の炸薬を充填して人間の操縦により必中を期した強
    力な水中特攻兵器で、関係者の中では単に「筒(トウ)」とも呼ばれ
    ていた。原計画では、接敵して針路を固定し、搭乗員はハッチより
    艇外洋上に脱出する緊急脱出装置が付加されていたが実用化の際に
    は廃止され、生還不可能の兵器となった。
     1型は魚雷の酸素を燃料に用いて走行し、全長14.7m、直径1m
    射程は30ノットにて23km、12ノットでは78kmにも達した。これと並
    行して全長16.5m、直径1.35m、主燃料を過酸化水素と水化ヒドラジ
    ンとした6号機械を搭載し、射程は40ノットにて25km、20ノットで
    は83km走航する回天2型の生産も進められた。更に1型と同じ燃料
    で、6号機械を搭載し40ノットにて27km、20ノットでは62kmの回天
    4型や電気推進の回天10型も開発されたが、量産が困難なため計画
    は中断された。
     回天の搭乗員は1型1名、2、4型は2名でいずれも頭部に炸薬
    1.5t以上を有し、通常の魚雷の500kg に比して数段と大きい破壊力
    を秘め、小艦艇ならば一発轟沈を期し得るものであった。
     製作主務は艦政2部(水雷)で、筒体の製造に4部(造船))が又2
    4型の主機械たる6号機械の設計製造に5部(造機)が当たったが、
    2、4型では、主機械たる6号機械の量産が間に合わず本体部が約
    200 基完成しただけで陸上実験を終了した時に終戦となった。
     因って実戦に供したのは1型のみで、昭和19年11月20日のカロリ
    ン群島ウルシー泊地攻撃を初陣として、その後、敵の電探、水測兵
    器に制圧され不振を極める潜水艦戦最後の望みを託され、独り回天
    のみは能く敵基地に潜入あるいは洋上において敵船団攻撃等で戦果
    を挙げ、米海軍を恐怖の淵に陥れた。
     終戦迄に約 420基が完成、本土決戦に最も期待された兵器であり
    又洋上で最後まで戦い続けていた唯一の兵器であった。
    (「回天」戦の詳細は、第3章 潜水艦の戦いで記載予定)


          「回天」1型 2型要目表
           1型          2型
    全重量  8.3トン       18.4トン
    全 長 14.75m       16.50m
    直 径  1.00m        1.35m
    機 関 魚雷用機関 1基、1軸  6号機械 1基、1軸
    燃 料 酸素196リットル    過酸化水素 水化ヒドラジン
    速 力 30ノット(水中)     40ノット(水中)
    航続力 30ノットで12.4浬  40ノットで13.5浬
    炸薬量  1,550kg       1,500kg
    乗員数  1名           2名 


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